前に父をテーマにした作品は「判決」、「変身」と「審判」だと書いたが、もう一つ「火夫」という作品があるらしい。しかもカフカ自身の言葉として判決、変身、火夫を一つにして「息子もの」として出版したと言っていたという。いずれも短編で三つまとめると本としての分量や体裁が整うということもあったらしい。
「火夫」とはなにか。釜焚きのことであろう。はて、と考えた。読んだかな。これは初期の長編「失踪者(別名アメリカ)」の第一章だという。それなら読んだ、ただし途中までだ。どうにも単調平板で読み切れなかった記憶がある。それでもう一度読んでみた。第一章はせいぜい40ページほどである。苦も無く読める。苦も無く読める、というのは妙な言い方だが。読んだばかりだから、、読後の印象ははっきりしている。
たしかにむすこものだ。女中に子供を孕ませた罰として17歳の主人公はわずかな持ち物だけを与えられてアメリカ行きの汽船に乗せられた。ニューヨークで降りるときに荷物を持ってくるのを忘れて、傘だったかな、船底(三等客室)に戻る途中で、妙な火夫に合う。
火夫というのはかまたきのことで、当時1912年当時は石炭を燃やしてスクリューを回す蒸気レシプロエンジンである。そのボイラーに石炭をくべるのがかまたきである(間違っていたら訂正をこう)。1912年には例の有名なタイタニック号が処女航海で氷山にぶつかって沈没しているが、この船もまだ石炭が燃料だった。
火夫が船長に苦情を言いに行くのについて行ってそこで偶然叔父でアメリカで上院議員にまでなっていた人物に合うという都合のいいはなしである。ちなみに失踪者はカフカの生前未完で死後出版された。カフカはこの第一章はよくできたと思ったのだろう。切り離して出版したらしい。
たしかに父親がテーマだが、判決や変身とはだいぶ違う。唐突、言い換えれば不自然な叔父との出会いがあるが、これは従来型の小説の紋切型の小説にくさるほどある幸運な出会いである。しかも17歳の少年である。他の二作品ではどう見ても30歳より上である。従来型の、つまりありきたりの通俗小説としてはそれなりにまとまってはいる。おそらくカフカとしては、うまく書けたと思って他の作品と一緒に出版したのだろう。なお、この三作品は同じ年に書かれている。
さて、いよいよ変身についてである。ヤノーホの書いた「カフカとの対話」によるとカフカは「変身は決して告白ではありません。ある意味では、秘密漏洩ではありますが」と意味深長なことを言っていたそうである。つまり字義通りの正直な告白ではありませんよ、ということだろう。言い換えれば二重三重に変換してある。象徴的に書いてあるのですよ、ということであろう。
カフカの最大の細工は前夜のことがまるで書かれていないことである。つまり虫に変身する前の夜の出来事がまったく書いていない。あきらかに意図的に書かなかったのだ。
世にこれまで変身譚の類は古来多くある。彼が虫を選んだのは意味がある。変身譚には人間がより高い、何というか進化したというか、より高い次元の存在に変身する場合がある。あるいは変身して神様みたいになる変身譚もある。そして動物に変身する物語もあるが、多くは哺乳類あるいは鳥類になる、つまり温血動物どまりである。ザムサは生物進化の系統樹ではそれよりさらに低い昆虫になるのである。カフカはあきらかに意識して虫を選んでいる。
カフカが虫を選んだ理由は
1:父の仕打ちから受けた深い屈辱感を表すため
2:父から受けた心理的、肉体的な暴力の深刻さを表すため
である。
さて、虫になった彼は、父親から投げられたリンゴが背中にあたった傷が原因で消耗して死ぬわけである。カフカは前夜のことを叙述から省いたが、それでは読者がわからないかな、と心配してダメを押しているのである。殺したのは父親ですよ、と。リンゴ事件が「カフカとの対話」のなかでカフカが言う「秘密漏洩」なのである。
変身する前の父親は、いぎたなくソファでうたた寝ばかりしている痴呆老人に描かれているが、これは判決の父親と同じ手である。判決ではふとしたきっかけで父親は暴君にかわる。変身では、息子が虫になった後、生計のため銀行の警備員になり昔の活力を取り戻す。まったくパラレルな構図である。
君の手紙を読まなければ「秘密漏洩」の意味は分からなかったと思う。世界に雲霞のようにいるカフカ研究者の誰一人として、その真意を理解したものはいないようだ。
今日はいい天気になった。天国も晴れているかい。
敬具(おわり)