昔から精神の三分野として知情意と言われる。大体この言葉がシナ古典にあるのか、西洋にも同様の分類があるのか浅学菲才にして知らないが、今回改めて考えてみると、例えば西洋哲学史でも「情の哲学」というのはあまり出てこないようだ。
勿論感情についての断片的な言及は大抵の哲学者がしている。しかし、ややまとまった思想としてはストア派の考えぐらいしか思いつかない。勿論デカルトとかマールブランシュとかにはまとまった作品はあるようだが、十七世紀の一時期に限定され哲学史の中では例外的である。
哲学と言えば愛知(フィロソフィー)ということばがあるように知識あるいは知識の根拠を探求することと見られる。意(意思)も近世になってからは幅を利かしてきた。自我の覚醒とか、近代の倫理学で一大テーマとなった自由意志の問題はそれだけで知を凌駕する分野になっている。カント(実践理性批判)、ヘーゲル左派のシュテルナー、キエルケゴール、ニーチェなど、すべてメインテーマは意思である。ハイデガーも意志の哲学と言える。大体実存主義というのは煎じ詰めると意志の哲学である。「盲目的な意思」のショウペンハウアーも陰画的な意志の哲学の代表者である。
そもそもデカルトは自分の情念論を哲学と思っていたのだろうか。彼が哲学と思っていた(認めていた)のは思弁的な形而上学だけだと私は考える。彼の情念論は自然科学と考えると分かり易い。勿論十七世紀の最新の自然科学である。
デカルトは数学のほかに、光の研究だとか、現代でいえば、自然科学分野の研究がある。そうすると、情念論の手法は生理学、心理学、解剖学の研究である。もちろん当時のそれら分野の知見をより合わせたものだ。当時のそれらの学問の最新の研究を寄せ集めている。彼独自の部分はあるのか、ないのか。
医学では西暦二世紀の人ガレノスの思想から動物精気なるものを流用している。現代病理学でいえば神経やホルモンとでもいうのだろう。それに当時の心理学的な常識。そうかと思とデカルトと同時代人ハーヴィーの最新の発見である血液循環論を採用している。要するにごった煮である。
近世初期のモンテーニュとかパスカルの作品のことを考えると、そして当時の生理学、心理学のレベルの限界を考えると、このような主題を扱うにはエッセイが適していたのではないか。