穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

カントの反省的判断力

2016-03-18 09:15:45 | カント

前々回、カントのいう「反省的判断力」についてふれると予告をした。カントの独創的なアイデアと言ったがそうとも言えないかも知れない。ようするに「帰納法」とあまり変わらないようだ。

このブログで小説の書評をするときには、進行形の書評ですることが多い。つまり読んでいる途中で書評を始める。10頁読んだところで始めることもあるし、読んでいる途中でその都度書評する。したがって、理論的には思い違いだったかな、と後で修正することもあり得る。しかし実際にはそのようなことはほとんどなかった。

それで、カントの場合であるが、やはり進行形書評である。現在のポジション・リポートをすると、判断力批判の5ないし10パーセントを読んだ所であろうか。小説でも再読三読で書評はかわる場合もある訳だが、カントの判断力批判は初読である。それで全体の5パーセント強といったポジションである。

さて、「反省的判断力」。カントがヒュームとすこし異なるのは、受け手については決まった処理機構があるということで、仔細に分析をしているところである。

『受け手』とは主観とも言う。そして外界(客観)を処理する方法には個人によって相違はないと「独断」することである。ようするに30億人いる人間はおなじ仕様のカメラであるということである。これが正しいかどうか、あまりに質問が簡単化されているので(カントにしては)、軍配は上げにくい。 

経験が無ければ(被写体がなければ)カメラに写真はうつせない。写したもの(現象)はカメラの性能、機構に制約される。「経験がなければ」というくだりが「反省的」に相当する。カメラの仕組みが超越論的な「判断力」に相当する。

 


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