前回のマエセツ(前説)の続きである。言い忘れたことが二、三あった。このブログで以前フランスの哲学者ポール・リクールのことを書いた。文庫クセジュでジャン・グロンダン氏の解説を紹介したことが有る。この本の半分くらいはリクールの若書きである「意志的なものと非意志的なもの」の解説に費やしている。
そこでほとんど絶版同様になっているらしい該書の翻訳を探し出して手に入れた。その感想もこのブログに書いたが、若書きのせいか、翻訳の日本語のせいか興味索然として途中で止めてしまった。その時に気が付いたのだが、彼の思考はカントのそれをふまえているのではないか、と感じたのである。自由、悪、非意志的なもの、などほとんどカントのターミノロジーのように思えた。
グロンダンの解説でも彼の思考の基礎の一つはフランスの反省哲学であるとしている。反省哲学とはこの場合カントの流れを継ぐものである。とくにリクールの若書きの場合はカントの道徳哲学のそれを。そんなわけで途中で読み捨ててしまった該書の記憶が頭の片隅に残っていたらしい。
また、ヤスパースがどこかで、本当に読むべき本は少ない、プラトン、アウグスティヌスとカントを集中して読めと言っていた。たしか「哲学入門」だと思う。
プラトンは何冊か読んだことがあるが、あの会話体というのがかったるい。どうしても思考を移入して行けない。テンポが古代的で思考にずれが出来てしまう。
アウグスティヌスについては「告白」を読んだくらいだから確とした印象はまだないわけである。そんなことが記憶に引っかかっていたからか、書店でカント本に目が届くようになっていたのであろう。