穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ドストエフスキー「罪と罰」

2016-08-30 03:26:49 | ドストエフスキー書評

 ドストエフスキーについては、この書評ブログで取り上げた回数は一、二を争うと思う。何年かぶりで何かのおりに読み返す作家というものはあるもので、十年ぶりだったり、5年ぶりだったりするが、最近新潮文庫の『罪と罰』を半分ほど読んだ。

前にも書いた記憶があるが「罪と罰」はドストエフスキーのアクメ(活動最盛期)の作品だな、と改めて感じた。作品の質も後期の五大長編小説では最高である。

世間では「カラマーゾフの兄弟」や「悪霊」を最もあがめたてまつるようだが、抹香臭く、思想小説っぽく、潤いがない。そこを世間は評価するのだろうが。

ドストエフスキーの特徴は、その技の冴えは、人間の内部の矛盾した葛藤を描くところにある。数学でいえば二項対立だ。ポール・リクールのいうinner disproportionである。そして小説の長所を生かした構成はそれが同一人物内で起こるということである。芝居ではうまく表現出来ない。やろうとすればモノローグの連発になるだろうが、観客にインパクトを与えることは不可能に近い。小説だから出来るのである。もちろん天才が必要だが。

また、同一人物のなかで起こるから深刻で興味津々となる。他人同士の葛藤を描くと活劇に堕しやすい。もっともドストエフスキーの場合はそうでもないが。例えば「カラマーゾフの兄弟」や「悪霊」がそれで、登場人物にそれぞれ特徴が割り振られている。そういう小説が好きだという人がいるだろう。比較の問題だが私の評価は低くなる。

一方「白痴」は「徹底的に善人(いい人)」としてムイシキンを描写する。周りの人でも彼に徹底的に対立する登場人物はいない。ロゴージンが対照的な人物として出てくるがムイシキンと対立するわけではない。また「未成年」はメリハリのすくない小説である。

inner disproportionを描いた作品の系列は、実質的な処女作である「ダブル(岩波文庫の二重人格)」に始まる。この場合、「世間としっくりいって他人を蹴落として出世するタイプ」が新ゴリャートキンである。「どうしても世間と折り合いがつかないタイプ」が原ゴリャートキンである。これを全く他人の二人として小説で書いても大した小説にならないことは明瞭である。

つぎは「地下室の手記」だろうか。「離人癖」と「やたらと他人と交わりたくなる時機」とが間欠的に同一人物のなかにあらわれる。すなわち『俺』のなかに。

「罪と罰」はあまりにも有名だから筋を解説するまでもない。ただ前二作より複雑で「犯罪を正当化、理論化、実行するキャラ」と「他人の苦難を見ると助けに猛進するキャラ」が交互に現れる。前二作の「世間とうまく行かない離人癖」と「他人とうまくやりたい性格」の対立が、「世間とうまくいかない」パートと「積極的に助けに飛び込む博愛精神」パートの対立になってはいるが。

問題はテーマではない。思想ではない。ドストエフスキーの思想はどの作品においても平凡である。彼の「作家の日記」を読むと思想家としてのドストエフスキーのレベルが分かる。天才と言われるのはそのinner disproportionを描く技の高さである。

 


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