何故小説を書くか:::Anti-Aging Pastimeである。老人のアンタイ・エイジング・パスタイムと言うと俳句とか川柳なんだろうが、これは群れて楽しむものだ。小説は一人で書ける。あるいは盆栽か、これはベランダ、縁側、一坪の庭もないから出来ない。
文学創作などと言うものは春秋に富む若者が求道者的精神でウンウン唸りながら書くものだという常識からすると冒涜も甚だしかろう。あわよくばそれで飯を食っていこうと言う青年諸君からは営業権の侵害と文句もでよう。なるだけ若鳥から仕上げてたくさんタマゴ(作品)を収穫しようという出版社、編集者諸君の思惑も分からないではない。
純真な評論家諸君は自分の「ひいお爺さん」のような年齢に驚いて飛び退る(とびしさる)。畏れ敬して原稿を遠くに取り除ける。そこまで遠慮せんでもいい。その儒教的精神はよろしいが。
何故書評を書くか:::感傷旅行である。この頃は目に優しい活字の大きい本が増えたのでセンチメンタル・ジャーニーをする機会が増えた。
この欄の書評でドストエフスキーを取り上げたことは多い。その中で白痴はどうもつまらない、と触れなかった。訳がまづいのか(ロシア語が読めないので)、本当に内容がつまらないのか結論を下せなかった。
ところが、あるきっかけで白痴を読むことにした。まだ読み返しを始めていない。だから今回のは映画の予告編みたいなものだ。そういえば、数ヶ月前に久しぶりに映画館に行ったが相変わらず余計で音ばかりうるさい予告編を延々とやっている。こんな時代遅れで観客に失礼な商習慣はとっくに前世紀で終わっていると思っていたのであきれた。
映画館は予告編が始まると場内を暗くして本編が始まるまでそのままだ。だから観たくなくても予告編の前に着席しないと他の客に迷惑になる。いい加減に予告編と言う悪習をやめろ>映画館主。
なぜ白痴を読む気になったかというと、中村健之助氏のドストエフスキー人物事典(講談社学術文庫)を読んだからだ。なぜ白痴がつまらないか、気になっていたので、まず白痴の項を読んだ。おやと目を啓らかれたね。それで読みなおす気になった。幸い、本棚を探すとまだあった。
他の章は読んでいないが、この本はなかなかのようだ。本場のロシアでも翻訳されたそうだ。それだけの内容があるのだろう。それに、ドストエフスキーの死後ロシアは天地が二度ひっくり返っている。現代のロシア読者には今の日本の若者が鴎外などを読むのより分かりにくい状況だろう。こういう本が日本語からロシア語に翻訳される事情があろう。
予告編だからここまでね。内容は後便にて。