穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

破片84:外出自粛下のダウンタウン

2020-04-18 08:40:37 | 破片

 公共交通機関に乗るのをやめろと高札に出ていたから、模範的市民である第九は毎日歩いてダウンタウンに通った。片道二時間かかる。殺風景な東京の街を歩くのは苦痛と言っていいが、日ごろの運動不足の解消にはなるだろうと思ったのである。そのかわり目標にしている毎日一万歩は軽く達成できた。しかし普段そんなに歩かないからたちまち足の指が痛くなりだした。今日は電車で帰ろうかなと考えながらダウンタウンのある階まで登って行った。エレベーターに乗るのも怖いから階段を登るのである。店内は超閑散としている。普段からコーヒー一杯千円の店が場末で流行るわけがないのだが、コロナ騒ぎで一段と店内はさびれてきた。

 席に着くとママがいそいそと注文を取りに来た。今日は女ボーイのすがたが一人も見えない。何時もの常連も来ていない。みんな今日は来ないのかな、とママに云うと「そうですねえ、これからどなたかいらっしゃるでしょう、来られるのが遅くなりましたね」という。

 彼らも電車や地下鉄でなくて歩いてくるのかしら、と彼は思った。
「いっそ、店を閉めて休業手当でも貰ったほうがいいんじゃない」と言ったらママは困ったように苦笑した。彼はいつもの通りインスタントコーヒーをカレー用スプーンで山盛り二杯注文した。二時間歩いていささか疲れたので砂糖は疲労回復の為に20グラム入れてもらうように頼んだ。

 新聞のラックからもってきた新聞の記事を片っ端から読んでいると、朝日新聞と読売新聞を隅から隅まで読み終わり、産経新聞を読んでいると入り口で割れ鐘をぶっ叩くような大声がした。顔を上げると下駄顔老人がママと挨拶を交わしている。隣に座ったJSに「あなたも歩いてきたんですか」と聞くとそうなんだ、君はと問い返してきた。
「私も歩いてくるんですよ、片道二時間かかります」
「そりゃ仕事と同じだね」
「まったく。運動不足の解消にはいいかなと思ってね。だけど歩きなれないからたちまち足に来ましたね。あなたはどのくらい歩くんですか」
「一時間とちょっとかな」と湾岸エリアの新開地に住んでいるJS老人は答えた。
 老人は第九が広げていた新聞を見て「何が面白い記事がありますか」と尋ねた。そして紙面をぞきこむと第九がちょうど読んでいた「消えた反物質の謎」というタイトルを見て、「ほほう、あなたは科学記事に興味があるんですな」と感心したようにつぶやいた。
「いや、とくには無いんですけどね。反物質なんてなんだろうと思ってね」
「反物質とは向こう狙いのバカげたネーミングだね。反物質なら無ということだべ」
「まったく、最先端の物理学者はお経みたいな世迷い事をいいますね。そうそう、最近読んだ記事でも妙なのがありましたよ。これは数学者の発見だか発明らしいんですがね」

「どんな話ですか」
「京都大学の望月という教授が「ABC予想」という難問を証明したというんですよ」
「一体何のことですか」と分からないことにはすべて直ちに軽蔑の念をしめすJS老人が吐き捨てた。

「いやね、数学的なことは記事じゃよく分からない。取材した記者にも分からないようでしたね」
「それじゃ話にならんね」
「面白いのは、この宇宙は幾何学的な図形で出来ているというんですな」
「なんですと」とかれはあまりに突拍子もない話を聞いて、持っていたお冷のコップを落としそうに驚いた。

 



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