穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

「存在と時間」の読み方-5

2015-04-05 07:27:36 | ハイデッガー

毎朝お騒がせしています。突然ですが、小保方晴子さんはハイデッゲル教授の研究室に入っていればあんなことにならなかったでしょう。

思い込みの強さで86年間も、死後も長い間思想界に大魔王として君臨出来る世界が哲学界です。

さて「問い」を練り上げきれなかったハイデガーでありますが、考えてみると、問いを練り上げるということはますます解答から遠くなるわけです。ジレンマですね。 

「存在への問いについては答えがかけているばかりか、問いそれ自身があいまいで方向を失っていることである。存在の問い(存在への問い、と、存在の問い、はどう違うのか>訳者殿)を反復することが意味するのは、したがって、まず第一に問題設定を十分に仕上げるということなのだ。」(第一節 段落10)

第一に、とありますが、書かれていない第二がありますか。こういう表現にフト、ウィトゲンシュタインを思い出しました。表面的には似ている。設問を有意味に措定しなければ答えがでるわけがないというのがWSの売りですからね。

また、段落64にはこうある。「存在の意味への問い(存在への問い、あるいは存在の問い;この三つの問いは同じもものですか>訳者殿)は解決されていないだけでなく、十分に設定されてもおらず云々」

之によって此れを観るにハイデガーは正しい問い方をすれば存在の問題は簡単に解けると信じ込んでいる。それにしては、終生正しい問い方が分からなかったということでしょう。

問いを十分に設定するということは、縷々エラボレイトする、詳細にする、あるいは具体的にする、と同じことと理解しましたが、「存在への問い」は究極の問いであり、質問を修飾し、細かく規定し、あるいは限定することは究極の、そして根底的で普遍的な問題により具体的な回答を求めることになり、とても適切な通路とは言えないのでは有りませんか。

 


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