穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

「存在と時間」の読み方-4

2015-04-04 09:14:34 | ハイデッガー

該書の目次は章、節となっていますが、節は章に関係なく、章にまたがってシリアルになっているので本稿で言及する場合は節で示します。また各段落に番号をふってあり、これも章、節に関係なくシリアルになっていますので、段落に言及する場合は(111)のごとく示します。

さて、第一節のタイトルに「存在への問いを明示的に反復することの必要性」とある。これをみると、著者は最初から答えはないことを承知している節(フシ、だぶりましたね)がある。

気になるのは「反復することの」と「必要性」です。すこし異様なタイトル付けではありませんか。毎朝、歯を磨きなさい、というような意味で「反復することの必要性」があるのか。毎朝歯を磨いてもなにも変わらない。虫歯にならなくなるだけです。

毎日、机を整頓して哲学書を開き、あるいは原稿用紙を広げ、あるいは哲学的思考に入る前に儀式の様に「存在への問い」を行うとご利益があるということなのか。

このタイトルをみると、この節には「必要性」が説明してあるかと思う。実際には歴史上、「存在への問い」が等関に付され、忘却された理由がハイデガーの分析として述べられているだけです。「必要性」は説かれていない。

なお、「存在への問い」が無視され、忘却された理由は、H氏(ハイデガー、以下H)によると、三つある。1)存在という言葉が普遍的な概念であり、2)定義不能である(これは普遍的な概念であれば定義不能なのは当たり前で2:として析出する理由はありません)、3)存在は自明な概念である。というものです。

まことにもっともな説明でHがどこかでショウペンハウアーの根拠率の説明を学部レベルの学生の議論だとあざけっていた例にならうと、学部レベルの議論です。

そして記述はここで終わります。どこに「必要性」の説明がありますか。これは序論の冒頭の文章です。もうすこし丁寧にやってほしかった。

なお、第一節のおわり、段落9、10で曖昧な表現があるが、訳者の注解によると、>だから、「存在への問い」の問い方をリファインする必要がある<と言いたかったと読める。それならそうと、はっきりと主題を書くべきではなかったか。

なにも歯磨きの様に「毎朝、毎食後にしなければならない、答えはでないけど」などと書く必要は無い。問い方をきちんとすれば答えは出ますよ、と言えば良いのである。

もっとも、この「存在と時間」の無慮数千ページおよぶ記述は「問い」をリファインしようとして、ああでもない、こうでもない、とやっているうちに尻切れとんぼに終わっているのかも知れない。

 


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