穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

イワン・モデルのコンピューター

2013-09-23 18:41:46 | 書評

 

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 ちまちまとしたことを書いていて我ながら嫌になってしまうが、どうにも他に方法がない。結論というか、私の心象からいえば、細かいことを言わなくても当然に考えられることで、人格のモデルというか、バフチンの言葉で言えば、イデーの特殊な形態としてのイワンのモデルを最初に説明したほうがすっきりとするのかもしれない。<o:p></o:p>

 

 コンピューター・アーキテクチュアを例にして説明すれば、イワンはアカウントが二つあるPCでしかも全体を管理するアドミニストレーターがいない。CPUが二つある。DUAL CPUというのはめずらしくないが、PCの場合複数のCPUPCの処理能力をあげるためにコラボする。イワンの場合はコラボがない。IOも二つ、メモリーも2セット独立して動いている。そんな感じかな。だからAというシステムというかOSが動いているときにはBは眠っている。逆にBが目覚めているときにはAはアイドリングしている。ABはお互いに分身なのだが、独立して存在しているように見える。<o:p></o:p>

 

 文学上ドストエフスキーの独創というわけでもない。「ジキルとハイド」も同じようなものではないか。ドストの場合ABは意識レベル、哲学的な言葉でいえば表象レベルでは完全にセパレートされているが、無意識領域というのを人間に認めれば、そこでは交流があるとしたのではないか。だから人格Aと人格Bの間には心の奥底でおなじプールがあり葛藤がある。それがイワンの精神を破壊する。イワンが事件後幻覚を見たり、事件後突然に精神状態に異常をきたす現象はこう解釈しないとつじつまが合わないのではないか。<o:p></o:p>