穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

「存在と時間」の読み方-3

2015-04-03 18:23:08 | ハイデッガー

本文で読むことにしました。岩波文庫全四冊です。結構な出費になりますが、とりあえず「第一分冊」を購入しました。私の選択基準は一にも二にも目に優しい本作りということなんですが、文庫ないし新書で手に入るのは中央クラシックと岩波文庫のようです。で私の選択基準で岩波を選んだ訳です 

前に哲学書で解説書を読むよりいきなり現物を読む方がいいものがある(わかりやすい)、と書いたことがありますが、「存在と時間」はその部類に入るようです。カントなんかもそうですね。一方解説書がないとどうもというのの代表格がヘーゲルでしょう。しかし、適切な解説書という条件がつきます。そうしてこの条件がなかなか満たされない。読書運というものも有るんでしょうね。

岩波の翻訳は熊野純彦さんですが、妙な物でこの人が「梗概」というのを書いている翻訳はいいが、梗概はあまり良くない。読まなくても良い、というか読まない方が時間と思惟の節約になります。同じ人なのに妙な物です。 

で、まだ本文を30ページほどしか読んでいませんが、冒頭で書いたような印象を持ちました。分かる所も有り、僭越ながら同意しかねる部分も早くも出て来ています。ということは書いてあることが分かるということです。何をいっているかさっぱり分からないというのでは批判も出来ませんのでね。

つまらないことばかりかり書きますが、ハイデガーの良い所は序が短い所です。もっとも序といっても凡例みたいなのが多い。63ページに「1953年 第七版へのまえがき」というハイデガーの文章がある。わずか1ページです。それによると、「存在と時間」は1935年に行われた講義録「形而上学入門」と一緒に読めとある。私はたまたま最初にこの『形而上学入門』を読んだので、このハイデガーの指示はよく分かる。もっとも、「存在と時間」はまだ30ページしか読んでいないが、1927年から1935年までの間に著者の思想に画期的な進展があったとは認められない。あくまでも補足ということでしょう。

それと、翻訳について、「たほう」というのが頻出する。これは「他方」のことのようだが、仮名にする意味がよく分からない。非常に分かりにくく、リズムが途切れ違和感がある。まあ、センスの問題かも知れない。

つづく


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