それは六十年前の日付だった。
「君はどうしてそんなに変わってしまったのだと君に聞かれたことがあった。憶えているだろうか。多分もう忘れてしまっているだろう。僕ですら最近ふとしたきっかけから思い出したくらいだから。それで、僕はその時君の疑問に答えていなかったことも思い出した。人は自分にとってもっとも重要なことを明確に真剣に考えることを無意識に防御的に避けるものらしい。質問したのに無視されたのでその時には君は不愉快に思われたのではないかと想像する。古い昔のことでおそらく君も忘れていることに、わざわざ手紙を書いて答えるというのも妙なことに違いない。
自分自身にとって長年の疑団氷解というほど目覚ましいものではないのだが、すこし「解」に近づいたようなのだ。しかし、頭の中でまとまってきた想念は妄想に過ぎないかもしれない。文章に表現することによって確かめてみたいのだ。それで手紙と言う手段で君の昔の質問に答えてみようかと考えた。君にとっては迷惑なことに違いないが。
あれは中学の二年か三年のころだったと思う。古い話で時期は曖昧なんだが。「大丈夫かい」と心配してくれた。誰が見ても僕は大丈夫ではなかったろう。しかし親切に気遣ってくれたのは君だけだった、と手紙は始まっていた。
知らない男から電話がかかってきたのは十日ほど前の夜の十時過ぎのことだった。三十過ぎとおぼしきハリのあるバリトンの落ち着いた男の声であった。その人は突然電話した非礼をわびたうえで私の姓名を確認した。「大変ぶしつけなことを伺いますが、昭和十七年に旧制府立XX中学をご卒業になりましたか」と聞かれた。不審に思い黙っていると、「今はご存知のように都立XX高校となっておりまして、その同窓会誌で調べました。私の祖父がおなじクラスにいたのをご記憶でしょうか。申し遅れましたがわたくしは一本松と申します」
徐々に記憶が蘇ってきた。同じクラスに風変わりな同級生がいたことを思い出した。
「たしかに一本松君と言う同級生はいましたが、あなたはそのお孫さんなんですか」
私の言葉に不審げな警戒するような雰囲気を感じたのだろう。
「突然このようなお電話を差し上げてさぞご不審でしょう。じつは」と言ってしばらく考えているようであったが、「要点だけ申し上げますが、祖父の遺品を整理しておりましたところあなた宛ての未発信の手紙の草稿が出てまいりました」
「一本松君は最近亡くなられたのですか」
「いえ、五十年ほど前に亡くなりました。私の父も同じ家にその後も住んでいたのですが、昨年父もなくなりまして古い家を処分することにいたしましたので。それで祖父や父の残したものを整理して処分しようとしているのですが、その作業の中で父の手紙が出てきたのです」
「なるほど、私宛の手紙の草稿と言うか、メモのいうのが」
「そうなんです。実は内容にも目を通したのですが、祖父の知らなかった意外な面を知って驚きました。また、平島様には大変親切にしていただいたことが書いてありましたので、もし連絡がつけばお渡ししたほうがいいのではないかと考えた次第です。ご迷惑でしょうか」
「いや、そう言われても」と私には答えようがなかった。
返事を待っていたが、私がなにも言わないので「郵送いたしましょうか、それとも、、何分古いことなのでこちらで処分してもよろしいですか」
「しかし、彼はなぜ手紙を発送しなかったのだろう」と私が言うと
「手紙に付箋が貼ってありまして、あなたの新しい住所が分からないので調べて出すことにした、と書いてありました。それでそのままになっていたのでしょう」
「そうですか、大学を卒業したころから後は会うことも無くなったからな。二人とも違う大学に入ったし、会社に入ってからは会っていないな。しかし、かれがその後も草稿を処分せずにとっておいたということは、なにか読んでほしいことがあったんだろうな。それでは読ましてもらいましょうかな。お手数だが郵送していただけますか」
というわけで手元に届いた彼の文章を読んでいるのである。