70:尻を拭くなら新聞紙を使え
世の女どもに告ぐ、くそをしたら古新聞で尻を拭け、と誰かが言わなかったっけ、と同棲相手兼雇用主の洋美がばたばたと化粧をして家を飛び出した後でテレビをつけた彼は思い出した。トイレットペイパーを女どもが買い占めているらしい。普段ならすぐ忘れてしまうような昨日の体験を思い出した。帰りにコンビニに寄ったときである。行列に並んで順番を待っていると前の客に長々と時間がかかっていた。見るとトイレットペイパーの大きなロールをまとめて買っている。テレビを見て、ははあ昨日の客も噂というかデマに踊らされた買占め客だったなと気が付いた。
その客にやや観察の視線を注いだのであるが、年恰好は六〇くらいだろうか、木賃宿の女中という印象であった。家族や宿泊客に多数の盛大に下痢をする人間でもいるので、腕に抱えきれないような量を買っていると彼は思った。なんだか彼女までが不潔のようで列に並ぶのをやめようかな、と思ったときに彼が呼ばれたのでしょうこと無しにカウンターに機械的に進んでタブロイド夕刊紙を買ったのである。
テレビでは前世紀のオイルショックの時にもトイレットペイパーの買占めパニックがあったそうである。そのころの映像が流されていたが、買占め客はみんな女性である。家族の間でトイレットペイパーは女性が買うものという役割でもあるのかな、と彼は不思議に思った。それとも女というものは排泄の時以外にも陰部を拭く必要があるのであろうか、知識の乏しい第九には判断が出来かねた。
テレビのワイドショーが終わると食卓の後かたずけ、洗濯、掃除と朝の行事を済ませると昼飯を食いに外出した。駅の近くのスーパーの前を通ると長い行列が入り口の外に出来ている。デパートなんかでは特定の菓子などの人気商品の前に長々と行列が出来るときがあるがスーパーでは珍しい。彼はドリンクでも買っておこうと店に近づいた。味付け水のプラスチックボトルはコンビニで買うと一五〇円以上するのにこのスーパーで九五円で買えるのである。それで店に入ろうとすると偉そうな男が大手を広げて彼を阻止した。背広を着た男でレジや店内で作業をする店員には見えない。おそらく店の幹部社員なのだろう。
「行列に並んでください」という。午前中にこんな行列が出来たことは無い。いや、一番込む時間帯の夕方でも行列して入店を待つなんてことはない。「何でなんだ」と彼が詰問すると、トイレットペイパーは一人一個までで順番に入店させるという。別にトイレットペイパーを買うわけじゃないといったが、店長らしき男は入れてくれない。そうすると今頃来る客はみんなトイレットペイパー狙いだと思っているらしい。ヤレヤレと彼は店を離れたのである。
定食屋で鶏肉と野菜のあんかけを食うと日課にしている本屋を回りダウンタウンに入った。
砂糖二〇グラム入りのインスタントコーヒーを注文すると、すでにたむろしていた常連の席に行った。彼らの話題は今日も新型コロナであった。第九は今朝ワイドショーを見ていて浮かんだ疑問を発した。
「尻を新聞紙で拭け、と言ったことを聞いたような気がするんですがね」と云うとJSは
昔はトイレットペイパーなんでものはなかったからね」と言った。
第九は驚いてそれで新聞紙で尻を拭いていたんですが、と反問した。
「昔でもしりふき紙はあったさ、チリ紙みたいなものだろうな。俺が記憶しているのは古新聞だったな。もうチリ紙なんてものは貴重品になっていたからな」
「何時頃の話ですか」
「すぐる大戦のころさ。物資が欠乏してな」
「それじゃ便所が詰まってしまうでしょう」
「詰まりはしない。水洗じゃないからな。紙はポトンと下の糞貯めに落ちる。それをあとで天秤棒で担ぎ出して田んぼに肥料として撒くのさ」
するっていうと、と第九は言った。昔のように古新聞を使えというわけか。
「たしかオイルショックのときに誰かが言っていたな」
CCが疑問を呈した。しかし、オイルショックというともう水洗便所がかなり普及していたんじゃないかな」
「東京ではね。しかし地方ではまだだろう。だからさ、水洗になったところでは拭いた後の新聞紙は流しちゃダメなんだ。ごみ袋に入れて燃えるゴミでだすのさ」
「本当ですか」
「さあな。しかし古新聞を使え、という主張はあったよ。憶えているからな」
71:日本人は肛門性愛期である
帰るさ、第九は外国でもトイレットペーパー騒ぎは起きているのだろうか、という疑問が脳中に浮かんだ。家に帰ると早速インターネットを漁った。アジアの近隣諸国を含めてトイレットペーパー恐慌は日本以外では起きていないようだ。そんな記事はない。彼は念のためにオイルショックの時の記事も検索した。1973年というからもう半世紀も昔の話である。やはり、日本以外でトイレットペーパーの買占めがあったというニュースはない。
社会的な大事件で、たとえば戦争とかパンデミックとかでは特定の商品が品薄になるというデマや思惑で大衆心理が惑わされて恐慌が起こるというのはあるようだが、トイレットペーパーが対象となることは外国ではないようである。しかも半世紀を隔てて全く違う恐慌が原因でいずれもトイレットペーパーが買占めパニック現象になるのは日本だけであるのは間違いないようである。
こりゃあ、何だ。日本人の種族性かな。種族心理学でも調べなければならない。フロちゃん(ジムクンド・フロイト)一派の深層心理分析に頼らなければなるまい。あるいはユンク教にも、と第九は思ったのである。日本人は種族としてまだ肛門性愛期にとどまっているのかもしれない。女性に限っては絶対そうだ、と彼は思った。柔らかいトイレットペーパーは懐かしいお母さんの手のひらの記憶かもしれない。
おや、と彼の視線はパソコンの仮面に釘付けになった。韓国ではトイレットペーパーを便器に流さないという。便器の横にごみ箱が置いてあってそこに使用した紙を入れるというのだ。クレジットを見ると二、三年前の記事だから、いまでもそうなのだろう。理由も書いてあって、トイレのパイプが狭隘ですぐに詰まるからとか、紙の質が悪くて水に溶けにくくて詰まってしまうからだという。日本も便器の脇にごみ箱を置いて捨てれば新聞紙でもいいわけだ。尻へのあたりはすこしゴワゴワするだろうが。もっとも肛門性愛期とすると、違和感があるのかもしれない。第一臭くってしょうがないだろう。
72:四谷はどうかしら
と洋美は言ったのである。タワーマンション脱出計画はようやく二件の物件に絞られたのである。いずれも四谷の物件である。一件は丘の上のお屋敷町に建つ三階建てで、模造レンガの褐色の壁がいかにも高級感を醸し出している。外から見ると住居を仕切る隔壁など見当たらない。ワンフロアに一住居のように見える。
欠点は、その広さである。百五十平米というのは、洋美ご自慢のマリーアントワネット風の天蓋付きベッドの容器としてはふさわしいのだが。価格も二億円近いというので、いくら彼女がいまをときめくキャリアウーマンと言ってもローンは組めない。賃貸にしてくれないかと聞いてみたら家賃が百五十万円ならと所有者は言っているそうである。第九が「あきらめろ」などというと彼女が逆上するから、しばらくは彼女の夢見物件として泳がせているのである。
彼女の第一候補なのである。一応不動産会社を通して引き合いに出して交渉を引き延ばしている。交渉を引き延ばして売り主の焦りを誘って値引きを引き出そうというのが彼女の作戦なのである。うまく行くはずもない。しかし、あまり高すぎるので他に引き合いもないらしく不動産会社もなにも言ってこない。
もう一つの候補は交通の激しい大通りに面したマンションの五階の部屋である。元は三業地だったということで、付近は商店ばかりである。マンションの一階はコンビニになっていて利便性は悪くないと第九は思うのであった。
翌日ダウンタウンに行ったときに、JHが引っ越しは決まりましたかと言われたので二件の物件があるが、と話した。
「一つは高すぎて現実的じゃないですがね」
「丘の上だか坂の上だとか言うとお岩稲荷の上かしら」とママが聞いた。
「さあ、どうですかね」とお岩稲荷を知らない第九は答えた。
「四谷というからには谷が四つあったんな」とEHが思いついたようにつぶやいた。
「今でもあるでしょう」とCC
「するっていうと、丘も四つあるわけだな」と大発見をしたようにEHが発した。
そうすると、引っ越しは急がないわけだ。腰を据えてさがすんだな、とJHが言った。
「しかしねえ、急いだほうがいいかもしれないな」とCCが思い出したように話に割り込んできた。「武蔵小杉の浸水騒ぎもあるけど、停電は別に台風のためばかりじゃないからな。いわゆるブラックアウトなんて原因不明の都市全域の大停電もありうるからな」
「いつかニューヨークでありましたね」
「タワーマンションではその他にいろいろ聞きますよ。深夜寝込んでいたところを警備員に踏み込まれた奴がいましたっけ。夏目さんのマンションは江東区でしたね。風はどうですか」
「ビル風っていうやつ」と長南さんが聞いた。
「海が近いせいかしょっちゅう強風が吹き荒れていますね。都心に出ると風なんか全然吹いていない日でも風速二十メートル以上の強風が一日中吹きまくっている日があります。それはビル風なんて生易しいものではない。私の知り合いの住民なんか自分のマンションを颱風荘としゃれて言っているのがいますよ」
「だけど、それと警備員に襲われる話とどうつながるの」と長南さんは不思議そうな顔をした。若き女性哲学徒はあくまでも納得のいく説明を求めるのである。
「それですよ」と一座はCCの説明を求めるように彼の顔を見た。
73:発報せり
「ご疑問はごもっともなれど」とCCは言った。「とにかく湾岸地域の高層マンションの周りで吹く風は狂暴でしてね。しかも風が巻くんですね」
「竜巻みたいに」と長南さんが憂い顔ですこし語尾をあげた。
「そうそう、だから管理事務所が住民に隔壁にひびが入りませんでしたか、としょっちゅう聞いてくるそうですよ」
「赤ん坊なんかは空に舞いあげられるの」と長南さんは本当に心配しているようであった。
「さあ、一人で置いておかれたらそうなるかもしれませんね」
ママが身震いして顔をしかめた。
「とにかくドアの風切り音が鳴りやまないんですから」
「風切り音って」
「風が強い時にドアがガタガタとゆすぶられるようになる時があるでしょう」
「しかし、ああいうマンションは全部中廊下だろう」とJSが疑問を呈した。
「もちろんです。その仲の廊下に面したドアがみんなガタガタいうわけですよ。それでね、颱風の時にはひときわそれが激しい。ああいうマンションは設備が最新式でしょう。防犯設備も各部屋に最初から設置されている。勿論ドアにもです」というとCCはコーヒーを啜った。
「ところがね、勿論センサーで監視しているわけだが、この設定が非常に厳しかった。というより厳しすぎた。台風の時に防犯ベルが一斉に発報したんですよ。驚いたのは警備室です。とにかく数百戸の部屋の警報が一斉に不審者侵入を発報したんだから」
「そりゃ面白れえ、壮観だったろうな」とJSは現場を見物できなかったことが残念でならないようであった。
「それは千所帯ちかい住居が入っているわけだから防災センターも大勢警備員はいるが、全部の部屋に対応することなど出来ない。とにかく一斉に警報が喚きだしたので、どうしたらいいか分からない」
「そうだなあ、センサーの感知レベルの設定が難しいね。緩くすれば本当に侵入者があった時に役にたたないわけだしね」
そうすると、引っ越しは早くしたほうがいいな、と第九は思ったのである。
それで警備員はどうしたの、と長南さんは聞いた。
「警備員が全員飛び出してめくら滅法にドアを蹴破って、失礼、合いかぎで開けてということですが、部屋に踏み込んだそうですよ」
それは昼間のことかい、とEHが念のために聞いた。
「いや、深夜二時ごろだったそうです」
「そりゃ住民も驚いただろうな」
この話も洋美にしてやらなくちゃと思った。
74:老樹いまだ花を開かず
今年は桜の開花時期がやけに不揃いだ。テレビでは満開の桜の映像がもう流されているが、第九が毎年街に出るたびに遠回りして見に行く桜はまだ枝先がもやもやしている。それはお屋敷町の邸宅の前庭にある一本の桜なのだが、咲きそろったときのあでやかさは形容しがたい。相当の老樹と思われる。まずは間違っても染井吉野ではない。まるで江戸時代から生えているような雰囲気を持っている。東京のお屋敷町は区画整理を免れて旧幕時代の武家屋敷の敷地がそのまま大邸宅になっているところがまだわずかにある。そんな家の前庭に生えている桜の大木がまだ全然開花の気配を見せていない。どこだかは書かない。個人の住宅であり、当世はインターネットでちょっと書くとたちまち人が群がって邸宅の住人に迷惑が掛かるから書かないのである。第九はここ数日外出するたびにその前を期待しながら通るのであるががっかりした。他にもそのような見事な桜を何か所か知っていたが、みな最近の住民の代替わりであっという間に桜は切り倒されて跡地にマンションが出現している。此の樹は彼の知っている桜の最後の美樹なのである。
ダウンタウンは閑散としている。コロナ騒ぎで客は相当に減っている。今日は常連ではJSさんだけだ。ほかに滑稽で貧弱なちょんまげを頭に載せた初老の男、あれれ、彼は先日長南さんの葉巻の攻撃で窒息しかけた男ではないか。彼はママと話している。たしか、彼女と同じマンションに住んでいるとかいっていた。
JSは前のテーブルにラップトップPCを広げて、怒ったような赤い顔をして画面をにらみつけている。かれが店でラップトップを広げているのは初めて見た。
「珍しいですね。ラップトップを広げてお仕事ですか」
「あんたね、いまではノートブックパソコンというんだよ」と彼は教えてくれた。
「おやそうでしたか。マイコンではなくてパソコンというようなものですな」
JSはギロリと第九をにらんだ。だいぶイカっている様子である。
そういえば何時か彼がエロ本執筆者だとか言ってなかったけ。秘密出版だとか、いやボケ防止対策だといってたかな、と第九は思い出した。それにしては赤い顔をして怒っているのはなぜなのだろう。それとも、エロ小説を書いていて自分自身が興奮怒張してきたので赤くなったのかな。
何をお書きですか、と一応聞いた見た。
「警世の書ですよ」
「は?」
「わかりやすく言えば木っ端役人に対する警告書ですな」
なるほど、それで納得した。世を嘆き、世を怒っているからああいう赤い顔をしているのだ。
「木っ端役人と言うと」と説明を求めた。
「警察庁、財務省、総務省だ」
これはすざましい。いや勇ましいと言うべきだろう。
「思い出しても腹がたつ」と吐き捨てた。
この老人を相当に怒らしたことがあったらしい。
75:瀰漫するシャベツ不感症
ジャパニーズ・サンダル顔(下駄顔)老人JSの声は興奮とともに段々大きくなった。ママと話していたちょんまげ男のロバのように大きな耳がピクリと十五度ほど老人のほうへ動いた。
「びどいシャベツですぜ。シャベツの極まれるところだな、老人に対して。女性シャベツなんていうとマスコミなんかが豚みたいなピーピーという威嚇するように喚くのにな」
「シャベツというのは差別のことですか」と一応第九は確認した。
老人はジロリと彼を睨みつけると、唇に浮かんだ唾を長い舌を出して舐めた。
大正生まれの老人は大学センター試験を通らないような言葉を用いる。大学センターレベルの学力では理解できないことがある。そのため、第九はいつも持ち歩いている電子辞書をバッグから取り出して調べた。そうか、やはりシャベツというのは差別の正調な発音であった。拙稿愛読者の高校生諸君、ここは無視して覚えないこと、そうしないとセンター試験で落ちるよ。
「何がありました」と第九は事態の究明に乗り出した。
「なんだと」と老人は怒鳴った。今度はママまでがピクリとしたような大声を出した。
「銀行くらいふざけたところはないぜ。金を預けてやっているのに利子も出さない」
「本当ですね、人を馬鹿にしたような低金利でね」
「もともと、利子を当てにして預けているようなケチな料簡は持ち合わせていないがね。こっちは金の番人のつもりで預けているんだ」
札束のトランクルームですね、と第九は同意を示した。
「そうよ、日本の治安では金を家に置いておくと危ないからな」
いや、まったくです、と第九は答えた。
「だからよ、こっちが利子を払ってやってもいいつもりなんだ」
トランクルームの利用料みたいなものですね。
「そうよ、それなのに必要な時に金を引き出そうとすると、とうの立った女行員が嫌がらせをするんだ。何に使うんだとか、本当に必要なのかとか客を見下したような態度をとりやがる」老人はまた、泡のようにくちびるに飛び出したツバキを舐めた。
そんな権限が彼女たちにあるんですか?
「もちろん、ないさ」
「それでどうしました」
「こんなすがれた女を相手にしてもしょうがないから、支店長を出せと怒鳴ったのさ」
第九は老人を見た。
「そうしたら窓口の店員は奥に行った。しばらくして窓口の女よりは年を食った女を連れてきた。その女が『わたくしが対応します』なんて一人前の口をききやがる。それで相手の役職と名前を確認しようと胸の名札に目をやるとだね、これが意図的だと思うんだが、名札はつけているがちょうど胸のあたりの制服に止めてある名札がうまい具合に下向きになっていて名前がみえない。それでさ、それじゃ名刺を出せといったのさ」
老人はまた唇を舐めるとコップのお冷をゴクリと呷った。
横のちょんまげ男はママをそっちのけにして老人の話に聞き耳を立てている。
「その時にその窓口の上役らしい女がどう答えたと思う?」と老人は第九を見た。
さあ、名刺を出しましたか?
「いやさ、『あいにく名刺は持っておりません』とぬかしやがった」
「へえ、こりゃ驚いた。どうなっているんですかね」
76:チョンマゲ男参入
いまや、座っている椅子を老人の傍まで引っ張ってきたちょんまげ男が横から参入した。
「いや、まったくですよ。むかしは銀行の窓口にいたのは若くて上品で愛想のいい女性でしたからね」
JSはギロリと横目でちょんまげを見た。「あんた、そんな昔のこと知っているの」と言ったが、頭に載せた白と黒の中間のグレイディングのちょんまげをみて相手の年齢を図りかねたのか、言葉を切った。たしかに年齢の良く分からない男だと第九も思った。
ちょんまげも相手の疑問を察したものらしく、「昔は私もまっとうな会社の会社員から社会人を始めましてね」と弁解した。「いまは落ちぶれてフリージャーナリストをしていますが」と謙遜したように補足した。
「何時頃のはなしですか」と老人は念を押した。
「さよう、四、五十年前になりますか」とちょんまげ男はすまして答えた。
「昔は嫁にもらうなら銀行員かスチュワーデスなんて時代があったな」これは老人の回想である。「何時頃から劣化が始まったのかな」と至極もっともな問題をフリージャーナリストにぶつけた。
「やっぱり時代の風潮ですかね。とくにリーマンショックの前後からでしょう」
さすがにフリージャーナリストだ、すぐに答えが出てくる。「銀行の危機なんて言われた時代でしたよね。それで財務省の介入で細かな銀行がメガバンクと合併したでしょう。地方銀行とかなんとかと」
「うんうん、そうだったな」
「悪貨は良貨を駆逐するというが、三つも四つも、何回もそういう合併をして人員がまじりあうと平均値はどうしても低いほうに引っ張られる」
「なるほど、そういうものかもしれん。さすがは軍事評論家だ。違いましたっけ」
ちょんまげは変な顔をした。「どこでお聞きになりました」
「この間、ここでひどくせき込んで発作を起こされたでしょう。その時にママが言っていた。同じマンションにお住まいだとか」
「なるほど、分かりました。フリージャーナリストと名乗ってもちっとも信用されないからそういうことにしてあるんでさあ」
老人はびっくりしたように彼を見て「まさか詐称しているんですか」
ちょんまげは慌てて顔の前で手のひらを左右して、「実際そんなことも書いてはいるんですがね」と相手を安心させるように言った。付け加えて、「それだけじゃあ食えませんから何でもネタを探して原稿を書いて売り込むんでさあ」
「どこへですか」
「週刊誌とか、実話雑誌とか。時には忙しい売れっ子のジャーナリストのゴーストライターなんかもしますよ」
「ははあ」と老人は言った。第九もキツネにつままれたような気がした。
チョンマゲが釈明した。「それでね、失礼だとは思ったんですが、お隣で聞いていて面白い話なので、覗き屋の習性でネタにならないかなと本能的に思ったのです」
なるほどね、といきなりの参入に警戒気味だった老人も笑顔を見せた。
「それじゃ、あなたに話しましょう。聞いてください。私が抗議の手紙を財務大臣に送りつけても秘書のまたその下の下僚にごみ箱に捨てられるだけでしょうからな。あなたが細工して週刊誌にでも載せてもらえれば、そのほうが歩留まりもいいかもしれないな」
いや、どうも、と彼は頭に手をやってチョンマゲの形を整えた。
「もちろん、取材費なんて要求しませんよ」と老人は付け加えた。
77:IT化異聞
ところで、と老人はチョンマゲに問いかけた。「あなたは銀行の窓口で意地悪された経験はありませんか」
「いや、とくには」
「あなたはまだお若いからな」
「さあ、彼女たちがどう思っているか知りませんが、私は大体窓口に行くことがないんですよ。キャッシュカードでたいていの用が足せるのでね」
「なーる、あなたはキャッシュカード時代の人なんだ」
老人はつるりと顔を撫でると、「銀行は合理化というのか何というのか、IT化をすすめているでしょう。それも顧客の便宜のためではなくてIT化で合理化した経費でびっくりするような銀行員の高給を維持するためらしい」
「言えてますね」
「我々のように通帳と印鑑世代に全部しわ寄せがくる。銀行の窓口はたくさんあるのに個人用の窓口は一つしかないところが多い。だからものすごく待たされるんですよ。その上金を下ろしたり振り込むときには嫌がらせを受ける。入金するときには何も言わないんですから露骨ですよ」
「通帳は万能なバウチャーのはずですからね。もっとも大事にすべきは通帳を使う顧客ですよ」とチョンマゲが応じた。
「実はね。私もキャッシュカードは持っているんですよ。使ったことはないですがね。それで昨今の通帳顧客の冷遇を見て、キャッシュカードを使おうとしたんですよ」
チョンマゲは黙って謹聴している。
「そこで問題発生でさあ」
「期限切れでしたか。もっともクレジットカードじゃないから有効期限なんていうのはないな」
「いやそうじゃない。ATMを操作すると取り扱い限度を超えていると応答するんでさあ」
「おいくら出すんですか」
「五万円ですよ」
「その額でそんなメッセージが出るなんておかしいですね」
「わたしゃ、不安になりましたよ。銀行から誰かが無断で引き出す被害にあったのかと思いました」
「最近そういう犯罪が多いですからね」
そこでね、と老人は続けた。「残高確認というメニューがあるでしょう。それを押したら、何とあなた、そのメニュはだめだというんですな」
「だめだと出たんですか」
「さあ、はっきりと覚えていないが、要するに使えないというか参照できないという趣旨のメッセージでしたな」
チョンマゲは首をかしげた。
「それでね、もう一度ためしに金額を三万円に下げて操作したら今度も限度額を超えているというんですな」
「かなり深刻ですね、というよりか考えられない。異常です」
「そうでしょう、それでもう一度スタートメニューに戻って画面をにらみつけると、引き落とし限度額の変更というボタンがある」
「ありますね」
「それで、そのボタンを押し下げた。そうしたら1万円以下でしたら限度額を引き下げることが出来ると答えた」
「そりゃあひどいな」とチョンマゲは驚いた。
「これは私の預金は犯罪者に根こそぎ引き出されたに違いないと思いましたね」
78:どこです 三月二十八日
一体どこの銀行ですかとチョンマゲが聞いた。
小泉純一郎が民営化したところですよ、と老人が答えた。
「ははあ、なるほど。最近簡保の詐欺的勧誘で指弾されたところですね。ありそうな話だ。自民党は何回か大きな国営企業の民営化を行っているが、大体成果を収めている。国鉄なんて優等生と言っていいでしょう、しかし、、」
いきなり頭の上から「国鉄って」という黄色い声が降ってきた。いつの間にか憂い顔の長南さんが来ていた。葉巻事件以来チョンマゲの傍を敬遠していたが、今日は老人と二人で店内に響き渡るような大声で喧嘩でもしているようにしている議論に引き寄せられるように寄ってきたらしい。
チョンマゲは上を見上げて、先日の猛女を確認するとぎょっとしたように腰を浮かして逃げ腰になったが、今日は葉巻を吸っていないのを見ると座りなおした。
「省線のことだよ」と老人は彼女に教えた。
「ショウセン?」
「その昔は院線ともいったかな。運輸省の前に鉄道院という役所があってな。そこが経営していたから院線というのさ、それから鉄道省になった。そのころは省線と言った」
あっけにとられている彼女を見て、チョンマゲは助け舟を出した。「いやさかのぼって定義をしていくとそうなんですが、逆にたどるとその省線が国電になり、民営化してE電と呼ばれた。しかし座りが悪いと評判がよくなくてJRに今はなっているんですよ」
彼女はようやく納得したようであった。
郵政民営化というのはひどかったな、と老人は話した。「理念もしっかりとした計画もなかった。今日の体たらくは当然の結果だろう」
「あれはアメリカに強要された結果ですからね。それに小泉首相の郵政省(いまの総務省)に対する私怨が相乗りしていたものですからね」
「初代の社長に強盗的な商売で有名な民間銀行のトップを持ってきたときにもオイオイどうなるんだと思ったけれどもね」
老人は乾いた唇に湿りをくれると「どうです、ネタになりそうですか」と聞いた。
「なりますとも、すこし周りを固めてみましょう。ほかの銀行のことも調べてまとめてみたいですね」
「どうぞご自由に」と老人は笑った。
「ところで、あなたの預金は無事でしたか」とチョンマゲは思い出したように老人に聞いた。
79:NHKの小学生ドラマ
は?と下駄顔は戸惑ったような表情をみせた。
その、預金が無断で知らない間にごっそりと引き出されていたことは無かったんですか、とチョンマゲは念を押したのである。「おれおれ詐欺だとか振り込め詐欺だとかNHKが誰に頼まれたのか、しつこくやっている番組があるが、そんな被害はなかったんですか。知らない間にキャッシュカードを使われるということがあるらしい、NHKによるとだが」
「まさか、あなた、そんなことはありませんよ」と老人は心外そうに答えたのである。
「まあ、善意に考えれば銀行の窓口で老人だと思って親切に心配してくれているとも取れますな」と人のいい老人は呟いた。「しかし彼らに善意があるとは全然感じられないがね。それにNHKが本当のこととして報道しているような事例がそんなにあるんですかね。しつこく毎日国民の貴重な資源である電波をジャブジャブ使って放送する必要があるのかな」ともっともな疑問を呈したのである。
NHKはなぜしつこくあんな放送をするのだろう、これは老人がいつも逢着する当然の疑問であった。
「あれはひょっとすると、警察庁の下っ端が仕事を無理にひねり出しているのかもしれませんね、あまりにも不自然だからな」とチョンマゲが思案するように言った。「官僚が一番怖いのは仕事がなくなることなんですよ。だから要らない仕事を常に作り続けている。あれも彼らが失業しないための仕事づくりかもしれない。それでNHKも警察や財務省に言われて放送する。警察に協力しているという姿勢を示しておけば、何かの時に役に立つ」
というと?
「たとえば、近い将来、国会でNHKの解散が問題になった時にはNHKはこんな仕事でも防犯に協力していますといえば、なにかの役にたつと考えているのでしょう」
それで財務省の下っ端役人もいい仕事が出来たというので金融機関に命令を出す。財務省も立派な仕事が増えたわけですよ。銀行は当然従うでしょう。そんなことで財務省のご機嫌を損ねてはわりがあいませんからね。それに銀行にもメリットがある。客のあづけた金が外に出ていくのを一番銀行は嫌がりますからね。一人一人は少額の引き出しでも積もり積もれば大変な金額になる」
「ナール、辻褄が合いますな」
チョンマゲが心配そうに最初の質問を繰り返した。「それであなたの通帳は無事でしたか」
「そうそう、それですよ。家に帰ってね」と老人は興奮から覚めたように云った。
「ああそうだった。それでね、家に帰って預金通帳をみたら元のままの金額だ。考えてみれば当たり前ですよね」と老人は恥ずかしそうに言った。「しばらく全然使っていないんだから、前の金額のままなのは。それで翌日郵貯に行ってATMで残高照会をしました。そうしたらね、残高はいじられていませんでしたね」
「よかったですね。それで銀行には抗議されましたか。話を聞いていると銀行内部の事務処理というか、つまりコンピューターを使ったシステムの運用上の問題という可能性が濃厚なんですがね」
コンピューターシステムの問題ですか?
「ええ、しかしハード的な問題よりも運用上の問題ね」
すると人為的な問題だと?
「取材してみないとわかりませんが、そんな感じですね」