前回の続きになるが、そんなわけで該書を読むべきかどうか。大きな問題です。時間がかかり、いらいらし、腹を立て続けることは十分に予想されます。
私の特技に読む前に書評をするというのがあります。そこで今回は「読む前評価」の試みです。
白鳥の湖の話をしましょう。なに、ベートーベンの第九でもいいのですが。読書というのは、とくに哲学書の場合は、読者は演奏者です。うまい人もいれば、下手な人もいる。うまい、下手とは別の次元で解釈の仕方もありますが。
プロの指揮者、あるいは舞台監督等はうまい(プロの)の解釈者であり彼ら自身が創作家です。そしてその解釈は細かく(つまり専門的に観れば千差万別で)いわばそれ自体が創作というか芸術の生産活動であります。
「白鳥の湖」は何百回、何千回も演奏されているでしょう。それでも世間は公演を求め続け、「芸術家」の創造活動は無限に続いています。
哲学者の場合も同じです。もっとも中には、おれは世界で初めてのことをしているのだと力む哲学者がいます。ハイデガーはそういう人らしい。あるいはハイデガーの追随者、ハイデガーで食っている大学教師が師を神輿のように担ぐのかもしれない。
いくら「読む前書評」が得意といっても、何も読まずには出来ません。それで解説者、書評家の短文を浚うわけです。原文を全部舐める様に一生かけて読まなければ駄目だとおっしゃいます。まことにごもっともであります。
この種のレジュメがまったく無意味だとしたら何のために書評家がいるのだと、そのレーゾンデートルが問われます。つづく