穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

第N(14)章 瞑想は妄想を断つ道にあらず

2016-08-24 07:47:07 | 反復と忘却

平島によれば方法はなんでもいいのである。座禅を組もうと正座しようとかまわない。要は雑念を追い払って瞑想することだという。正座はあまりしたことがない、というかする機会が無い現代では三四郎のような若者には長時間正座するのは難しい。苦痛である。それで座禅にした。はじめて知ったのだが座禅の組み方というのはやかましい規則がある。本を見てちょっとやってみたが非常に不自然な姿勢である。やりなれないからそう感じるのだろうが、こらえ性のない彼はすぐに嫌になった。座禅を組むとすぐにひっくり返ってしまう。彼は座禅を諦めた。ようするに瞑想をすればいいわけらしい。

そこで椅子に座って目をつぶり何もせずにしばらく座ってみた。尻の穴に意識を集中したせいか、すぐに尻の骨が椅子に当たる所が痛くなりだした。何かやりながら、例えば本を読みながら椅子に座っていても尻が痛くなることはない。それが意識をそこに集中すると、尻骨がごつごつと椅子にあたるのを意識しだす。そうすると、上半身の体重がすべてそこに集中してくるようで、どうにも痛くて我慢出来なくなる。

おもわず腰を浮かしてしまうのである。なんだかトイレの便座に座っているみたいで自分でも滑稽な姿勢だと思う。一番困ったのは無念無想になれという要求であった。何も考えるな、というのは大変な努力しないと出来ない不自然な状態である。普段は自然に押さえつけられている妄想が雲の様に心の中から湧いてくる。こんなに妄想を溜め込んでいたのかと自分で驚いた。瞑想しようと不自然な努力をすることで、心が反発をしてパンドラの箱が開いてしまうのである。

こりゃ瞑想等話にならんと警戒心がわいたが、そこはそれ、もう少し我慢すれば明鏡止水の境地に入るやも知れぬと思い直した。

ところがそうは問屋がおろさなかった。心臓が急にどきどきしだす。頸動脈のあたりにどくどくとながれる血液が大きな音で耳の中で聞こえる。非常な不安を感じる様になった。予想外のことも起こった。彼はかって便秘というものを経験したことがなかったのであるが、便秘になってしまった。便意が無くなってしまえば便秘もそんなに気にならないのだろうが、四六時中便意を感じるのだが出ない。大変な苦痛と不安であった。腹が破裂しそうな気配がした。

「こりゃ、全然駄目だな」と彼は平島に会った時にはなした。もっとも彼に話した所で始まらないのである。彼と同じ年令でただ浪人している彼と違い大学で二年ほど心理学のとば口をチョロッとあたっただけの平島に適切なアドバイスが出来る訳ではない。

しかし彼は親切な男で、三四郎にもどうしてだかよく分からないのだが、自分のことを我がことの様に心配してくれるのである。平島は困った様に三四郎を見ていたが、なにか思いつた様に言った。

「そうだ、禅の公案を考えるといいかもしれないな」

 


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