穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

無意味な「私小説」ジャンル

2011-02-16 19:44:26 | 芥川賞および直木賞

文学とは、とか小説とはと問うことはある程度意味がある。哲学とはなにか、とか、真とは、善とは、美とは何か、と問うことがある程度の意義があるのと同様に。勿論コモンデノミネイターは無いのであるが。

しかし、文学と言う特定のジャンル、小説と言う二次ジャンル、さらにその下に「私小説」というジャンルを設けて私小説とは何か、と問うのは意味をなさない。

いつからこのような悪臭、いや悪習が出来たのか。小林秀雄という人物が事々しく言ったからなのか、いや田山花袋はIch Romanといっているから明治時代からだろうか。

もっとも、ドイツではこの言葉は教養小説という意味に用いられたと聞いたこともあるが、若きヴェルテルの悩み、のように。

私小説という用語は適切ではないが、もし定義をするならそれは内容ではなくて、以下に列挙する小説家の作品あるいはこれこれの作品は私小説である、というのを定義にしなければならない。すなわち私小説と言うのは列挙的に示す以外に方法はないのである。

そして、各人の意見が一致することも、また、ないであろう。つづく

&& 田山花袋であるが、彼が私小説なる語を使ったことはないのではなかろうか。これは文献学者に考究をおまかせするが、田山花袋が私小説と言う卑猥猥褻な用語を作るとは思われない。彼自身は地方の出身者らしいが、それでも明治の教養人である。私小説などと言うセンスのないことばを使うはずがない。

だから、訳さずにIch Romanと言っているのではなかろうか。