穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

カント翻訳者のセンス2

2016-03-03 07:38:18 | カント

「理説」という言葉だが三省堂大辞林に出ているらしい。理論学説とある。良心的な当ブログだから補足しておく。ただし、前回記事を訂正する必要は認めないのであしからず。

 さて、今回の本題に入る。「超越論的」という言葉がある。昔は『先験的』といった。戦後間もなく九鬼周造氏が先験的という訳語はおかしい、超越論的とすべきだといったらしい。それでおいおい超越論的という妙な訳語が一般的になったという。

 翻訳には言語(原語)の意味通りに無理矢理訳す場合と、より適切に意訳する場合がある。「超越論的」の場合は、もとの言語に忠実に、「先験的」は内容優先のより適切な訳である。

 カントの言語のさらにその先にはスコラ哲学で用いられたラテン語がある。transcendentalという言葉を選んだことが適切かどうか。カントにはアプリオリという言葉もある。transc...とアプリオリは意味がだぶる。ほぼ同じ意味に使われる。カントの用語法には揺れがある。

 アプリオリもラテン語だが、その先にはギリシャのアリストテレスがいる。これも先験的と訳せるだろう。日本の場合、アプリオリ、アポステリオリとカタカナに訳すようである。カタカナに訳す場合はまぎれがないから、それはいい。

 Transcendentalという語は「向こう側、あるいは彼岸」という意味のtransと「昇る」という意味のascendの合成語である。

 A prioriは英語のprior toやpriorityに通じる。経験に先立って(かならずしも時間的な意味でなく)というニュアンスである。純粋理性批判でいっている場合は感官の受け皿として、すでに別の側にあるといったほどの意味である。

 スマホのカメラを考えると良い。外から入っている映像はカメラの仕様でしか捉えることが出来ないという意味である。そうして、客観としての映像を人間はカメラの仕様でしか理解出来ない。解像度しかり、レンズが広角か望遠か、絞りは、シャッタースピードはといったことである。

 次回は物自体という幽霊を巡るカントの揺れについて、、

 


カント翻訳者のセンス1

2016-03-02 07:55:31 | カント

 たまたま手に取ったのが熊野氏の翻訳だったので不運と思って諦めて欲しい。

「判断力批判」の第一序論で「理説」という言葉が何回か出てくる。食べている食物になにか硬い異物が入っている様に感じる。

 理論説明の略なのかね。ちなみに岩波文庫の篠田氏の訳では「積極的,主張的理論」となっている。これなら分かる。日本語である。単語としての意味は明快だし、前後の文脈の中にもしっくりなじんでいる。

 もともとカントには適切な単語をピックアップするセンスがないから時々戸惑うが、翻訳ではカントの意を汲んで意訳でもいいから適切な訳語を選んで欲しい。

 念のためにシナの古典籍に根拠があるかと思って漢和辞典を引いてみたがこういう熟語はないようだ。勿論広辞苑にはない。

 明治時代の西洋哲学移植者にはみなシナ古典の教養があったから、造成した熟語も様(サマ)になっていたが、現代の大学人にはそのような教養がないから時々妙な言葉に出会う。新しい造語には「出典、典拠なからざるべからず」である。