まこの時間

毎日の生活の中の小さな癒しと、笑いを求めて。

入学式

2015-04-10 | 小さきもの

kenが生まれたのは2008年(平成20年)9月13日。その年の12月に殿は検査入院して前立腺癌の宣告を受けた。7年目に入ったわけだ。ランドセルは殿が贈った。

今年4月7日、kenは散髪も行く暇がなく(親やばぁばが暇がなかったのだが)入学式を迎えた。

昼にうちへ寄るというので、間に合うように有り合わせの材料でちらし寿司を作った。イクラの代わりにプチトマトを入れたが、トマト好きの孫は喜んで食べてくれて良かった。

入学式の後、すぐに家へ寄って、じぃじ(殿)と、いんきょじぃちゃん(舅)に手を合わせ報告。入学式なのに小雨が降って寒かった。

生き残った者は、成長していかなければならない。年をとっても成長するだろうか。


季節が飛んだ

2015-04-09 | 暮らし

2階の寝室の月めくりカレンダーが2月のままだった。

2月をめくり、3月をめくって、ひなまつりも春分も飛んでしまっていたことに気付く。今日も通夜があって会葬に行く。殿の葬儀の後、今日で5回目だ。季節の変わり目で不安定な毎日のせいか。人が亡くなることが日常みたいになってきている。朝、新聞を見るのが怖い。

朝ドラ「マッサン」を、爺さんの葬儀の朝、葬儀場に泊まっていたのでみんなで観ていた。姑は「最終回ちゅうもんは、おもしろない。今までのまとめをするだけや・・」と言っていたが、まさしくその通りで、次はどうなるのかというわくわく感はない。しかし、今回エリーがマッサンに手紙を残していた。最後に「毎日寝るときに、わたしを思い出しておやすみと言ってください」と、手紙の終わりのことば。

家で、殿のカバンを見たが手紙はなく、処理しなくてはならない証書や通帳がきちんと入っていた。ファイルには順番に年金や保険証書が綴られていた。殿は事務仕事は本当にきちんとしていた。手紙はない。

試しに、寝る前に「おやすみ。茂さん」と、言ってみたが、これはいかん。自分の声がむなしく響くだけで、それが耳に入ってよくない。闇に吸い込まれて自分の声が彷徨うようだ。これは残酷だ。

試しに、朝起きて「おっはよーーー。茂ちゃん」これはいい。太陽に向かって言うのである。雨でもよい。とにかく外に向かって言う。その時は、体も起きているので「ほいじゃ、テレビ体操でもすっか・・」となる。

改めて、3月はどこへ行ったのだろう。


「死ぬのが怖い」

2015-04-08 | 読書

少し前、新聞に紹介されていた「死ぬのが怖い」とはどういうことか-という本1500円を、ネットで500円で手に入れた。

生物学的に死を語る。生きていくことは監獄で死を待つ事と同じではないかと作者は疑問を投げかけるところから始まる。脳科学的、進化生物学などから考える。「死ぬこと」は「進化」のための必然であるということ。死後の世界を科学的に説明できるか。宗教と哲学と科学的見地から死を考えるのだ。

この本に出会ってから気持ちが少し楽になり、殿が最後の入院の時、わたしも付き添わなくてはならい時に、かばんに入れて行った。殿が静かに眠っているときに、少しずつ読み進めていった。

終末期患者の気持ち。衝撃と否認、怒り、取引、抑鬱、受容という段階を経る。殿は最後まで家にいた。そして、最後まで怒らず、騒がず、希望すら持っていた。でも、いよいよの時を知るに違いない時、わたしはどうすればいいのか最善を尽くしたいと思った。

気持ちを楽にさせてあげたい。残された者の悲しみを知らせず、とにかく「ずっとそばにいるから」「後の心配はしないように」と、思った。最後まで笑わせてあげよう。1秒たりとも離れずにいると言うと、にっこり笑う。最後まで意識があるようだった。もちろん、意識は波のようにぼんやりとしたり、少しはっきりしたりする感じではあった。

殿と暮らして死を遠ざけてきた。目先の幸せに焦点を当てて、死の問題を考えないようにしていた。しかし、ここで避けられないことをやっと悟った。

本書の中で「今自分が生きていると思っているこの自分の心は実は幻想だ」というところがあった。殿に、語った。不思議だが気持ちが落ち着いてきて、「不思議やね。脳の錯覚やって。怖いことないみたいよ。」分かるか、分からないか、うすぼんやりしている殿に話しかけていたが、本当は自分に納得させていたような気もする。

反応がない殿に構わず、独り言のように「人生はあぶく銭やって。生まれる前は何もなかった・・」その後、宇宙と生命の歴史のくだりを見て、笑えてきた。そして、笑いながら泣けてきた。

殿は寝ていたので、話をやめてぼっとしていたら、殿が急に「わかりました!」と、大きい声で答えたのでびっくりした。おかしい・・笑えるぅ。わたしは、最後に殿の言葉をひとつ残らず書き留めていた。大切な何かを言い残してはいないだろうかと。

今考えると、大切な言葉などないんだと思う。日常は、なんでもない会話がつながって日常だ。大きな秘密を抱えていない限り、臨終近くに言い残すことなどない。いつも、ありがとうと言ってくれて、すまんなあと言ってくれていた。今更、何の言葉もいらない。黙っていても、そばにいるだけでいいのに。

心の拠り所である何かは宗教でも科学でもいい、とにかく、今ここの、この時間しか生きられないのだから、今ここで泣くか笑うか。最後まで読み終わらない間に殿は逝った。

 


初体験

2015-04-07 | 暮らし

病院で殿を笑わせようと、意識が回復した時に言った。「強烈な初体験やね。」殿は笑った。わたしの頭もどうかなっていた。このままでは動けなくなると思い、掌を握ったり、足首を曲げたり出来るか尋ねてしまった。殿は、手足を動かすと、「よかったよかった、動けなくなったら大変やもんね。」と、笑って泣いて。

「あのぉ・・」と、話しかけようとする殿。次の言葉が出てこない。「辛いのに無理せんでいいよ。大好きやってことは、何回も聞いたし、ありがとうも何回も言ってくれたし・・。」「あのぉ・・・」

何だろう。しばらく黙っていた。そして「あのぉ・・の次は、隠し財産があるって?」というと、にっこり笑う。「もしかして、隠し子がおったとか」また、にっこり笑う。その後、とうとう「あのぉ・・」の、次の言葉が分からずじまいだった。

香典返しが足らなくなるほど大きな葬儀と、爺さんの家族葬として新聞に「終了」で出した葬儀を、別々の葬儀屋でした。段取りが分かるので微妙なところの違いを知ることになる。

質素にした爺さんの葬儀でも、お布施は同じで、爺さんが自分で「院号」の入った法名を持っていたため「永代経」を、殿の倍支払わなくてはならないということを知った。

終了したばっかりに、葬儀の後は家を空けられない状態になった。会葬の人が毎日訪れるので、ファミリーの会館でも先に新聞に載せるべきだったかと少し考えたが、親戚や知人の手前この形にみんなで決めたので仕方がない。

本当に、初体験やわ。と、遺影に語りかける。


相続手続き

2015-04-07 | 暮らし

H銀行の殿の相続手続きを終えたが、今度は爺さんのを引き続きすることになり、その手続きがもうひとつ厄介なことに気付いた。

相続人が死亡しているという証明をまた取らなくてはならない。そして、妻である婆さんはすべてをわたしに任せて安心しているが、嫁の立場では関係ない手続きで、本家へ養女として出た妹にも証明をもらわなくてはならない。本家から嫁に出たので、爺さんに関しては謄本は膨大な枚数になった。これが、93年生きてきて、殿に勝る歴史を物語る。

印鑑証明を追加でもらいに行って、ついでに税務課へ寄って土地・家屋の所有の台帳をもらいに行く。その時、どこかのじいさんが、窓口の人に食って掛かっていた。「わしの土地やったのに、・・・!!!」大声で難癖をつけ、ついには、大切な書類が盗まれたので証明できん!!と、暴れていた。税務課は大変だろうな。役所の人のせいではないのに、市民の怒りはここにぶつけられるのだろう。

年金の手続きで、わたしもムンクの「叫び」みたいな心境になった。一体長い間勤めてかけてきた年金はどうなったのだろうと。頭の中に、厚生年金会館とかの建物が浮かんで消えた。

殿の手続きも遅々として進まないのに、振り出しに戻る状態。殿は誕生日目前に逝った。皮肉にも、がん保険は65歳にならないで亡くなった場合、死亡保険は65歳になったときの倍なのである。若いということか。

 


残してくれたもの

2015-04-06 | 暮らし

わたしは、今まで殿という大きな傘の下で、何の苦労もなく、のほほんと生きてきた。

その大きな傘が取り払われ、雨や風に直接当たる。冷たいねって言っても答える人はいない。そんなわたしを娘たちは心配し、ちょくちょく寄ってくれる。友達は訪ねてくれるし、ありがたいと思う。くじけそうな気持を支えてくれる。しかし、ストレスはうちの中にある。

殿は昨年5年日記を買った。その日記に「年頭所感」と、書いたメモを挟んであった。

抜粋

「前立腺がん」という病気になってから5年が経過。家族には随分と心配をかけてきたが、幸いにも仕事を続けているのが現状である。いずれ、近いうちに退職し、第二の人生を過ごす訳だが、その前にがんとうまく付き合って、もう5年は生きていたいというのが本音である。

欲を言えばきりがないが、自分にはもったいない明るい女房と、二人の娘にも孫が出来て元気に育っており、本当に恵まれていると感謝、感謝。「足るを知る」ことを常に念頭に、これからを生きていかなければと思う。・・・・・・略

殿の生きた証を、捨ててはいけない。ましてや、わたしに言っているような「足るを知る」のことば。まだ、49日までわたしの周りにいて、言葉を与えてくれているような気がする。

その日記は1年と2か月で終わってしまった。殿には最後まで言わずに我慢した「両親を残して・・逝ってしまうとは」と、言う言葉。ところが、間違っていた。土曜の夜、娘達が持ち寄りで食事をしに集まってくれた。そして、孫と泊まっていった。殿の残したものは、素晴らしいものがあったんだ。どうして暗いほうを見つめるかなぁ。わたしを支えてくれる家族や友達がいる。

弓道の仲間たちの温かい言葉があった。「時薬」とか「ひにち薬」に、身を任せ・・という良い言葉。また、この身体はレンタルで、いずれ神様にお返しするものという。仲間の言葉に感謝し、ブログに書くことによって、言葉でデトックスしている感じだ。

昨年、殿の下血入院の時、タブレット端末を買って病院へ持って行ったら「やるねぇ」と、喜んでくれて、以来彼を笑わせようとばかり考えていた。ブログもそうだが、ふたりで漫才を観たり、出かけたり。最後は治療の為に出かけた金沢でさえドライブを楽しむような気分だった。悲しいくらいに変わり果てた爺さんみたいになったのに、弓道の仲間に会う時は、なんのためらいもなく喜んだ。わたしなら外出をしたくないだろう車椅子の身体になっても、最後の加賀市の総会で会長としての言葉を言った。人前での挨拶は得意中の得意で、いつも言葉を選んで話をしていたのに、最後の挨拶は力ない声だった。どうして気づかなかったか、どうして油断したか、どうして気持ちをもっと汲んであげられなかったか。つらいとも、悲しいとも言わないので、とうとう最後まで能天気なわたしだった。でも、ありがとう。

残されて悲しいけれど、残された物を拾い集めてもう少し殿の思い出に浸ってみよう。そして、わたしの周りの人々に感謝の気持ちをお返ししたい。殿への気持ちをありがとう。

わたしが殿を支えていたのではない。病気でも殿の存在がわたしを支えていたのだと今強烈に思う。何をしても気が入らないし、弓道も殿がいたから楽しかったのだし、映画もテレビも殿がいたから面白かったということを知らされた。


遺品整理

2015-04-02 | 暮らし

殿がいなくなってから、手続きに奔走し、65歳になる前になくなって年金も貰えなかったことを残念に思い、本当にあれこれと書類に名前と住所を書きまくり、葬儀からこっち泣いている暇がない。おまけに、爺さんの手続きもかぶってきた。

頭のどこかをロックしたようになっていた。殿をしっかり介抱できたからか悔いを残さないようにと日々を過ごしたから大丈夫かと思っていた。外へ出たり、誰かと話していると大丈夫なのだが、一人になると落ち込む。

婆さんが、爺さんの遺品や寝具を全部車庫に出していた。素早い対応だ。まるで待っていたかのような手際の良さに感服。

わたしは、2階の窓から白山を眺め、この借景がいいと言っていた殿の言葉を思い出し、手帳に「久しぶりに日光浴」と、書いてあるのを思い出し、この太陽を浴びることができないと思ったとたん、涙がセキを切ったように流れ出した。

外が明るくなればなるほど、気持ちが暗くなるような気がする。入院中、余命宣告のあと心残りがないように頑張ってきたが、割り切れるはずがない。

伯母から電話があり、遺品整理は49日が過ぎてからにしたらいいよと言われた。伯母も伴侶を60歳で亡くしたのだ。今でも思い出として取ってあるとのこと。ゆっくりと時間が流れるのを待つしかないんだろうか。