『岩手県雫石町の小岩井農場にある、「一本桜」が満開となり、見ごろを迎えている。今年4月は例年よりも寒い日が多く、昨年よりも10日遅い開花。満開も6日遅い7日となった。
小岩井農場によると、この一本桜は詳しい樹齢は不明だが、放牧された牛を夏の強い日差しから守る「日陰樹(ひいんじゅ)」として、明治40年代ごろに植えられたという。 白い雪をまだ頂に残す岩手山を背景に、青々とした小岩井の大地の上、一本桜は堂々と花を咲かせて立っている。』【もぎたて便】
(2010/05/13-10:43)時事通信
岩手県雫石しずくいし町の小岩井農場に有る一本桜、明治40年代から 風雪酷暑ものかわとせずに時代をじっと見据えて来た一本桜、小岩井農場の歴史を物語、夏場の強い日差しから牛を守って来た「日陰樹(ひいんじゅ)」の役割も長い間果たし来たと言えます。今年4月は例年よりも寒い日が多く、昨年よりも10日遅い開花。満開も6日遅い7日となった一本桜の木は、その年の気候を順応し、桜の花を咲かせる一本桜、人智には及ばぬ一本桜、天候を正確に予測出来ない人間の科学技術の限界を知るとともに自然の大切さを人間が、桜の木から教えて貰っているように思えてなりません。木には、精霊が宿っていると昔から言われています。木の博士は、木と対話が出来ると言われています。人間の生命が、軽んじられている今日、綺麗に咲く一本桜から、見る人の心が癒され、生命の大切さや貴さ人間問いかけているように思います。木や自然を大切にする心から人間性豊かな人間が履くぐまれるのではないでしょうか。自然大切に自然に学ぶことが今教育でも忘れられているように思います。
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小岩井農場と一本桜 | 北の風通信モリーオより引用www.bthr.net/photoblog/archives/467
小岩井農場にも遅い春が訪れ、今年も一本桜はきれいな花を咲かせはじめました。農場の広い牧草地の中に一本だけ凛として立ち、まだ雪を抱いた岩手山を背景に淡いピンクの花を咲かせる一本桜を見るために大勢の人が訪れています。
「小岩井農場は明治二十四年(1891年)に開設されました。当時この地は不毛の原野でしたが、土壌改良を行うと共に森林を形成しつつ、一貫して農林畜産業を基軸とした運営を継続し、不毛の原野は百年を超す歴史の中で生産性の高い緑の大地に変わりました。
農場の中で、秀峰岩手山を背景に緑の大地に根を張る一本桜。詳しい樹齢は不明ですが、おそらく明治四十年代(約100年前)に植えられたと推定されます。一本桜があるこの草地は、今は農場の牛などの餌になる牧草を収穫する畑ですが、昔は牛の放牧地でした。牛は暑さが苦手なので、夏の強い日差しから牛を守る「日陰樹(ひいんじゅ)」としてこの桜が植えられたものと考えられます。以前はここで牛の世話をする人しか知らない桜でしたが、昭和50年代に広域農道(雫石地区:全長19.5km)が整備(1978年完成)されてからは一般の方も見学できるようになりました。」(一本桜案内板より)

小岩井農場桜情報の第16回です。
一昨日まではまだ葉よりも花の方が多かった小岩井農場の一本桜ですが、
今朝はこの写真の通り、葉の方が目立ってきました。

もうすっかり葉桜ですね。
それでも、私の他にカメラを向けている方が数人いらっしゃいました。
桜はすっかり終わったものの、青空、残雪の岩手山、青々とした牧草地との組み合わせ
の妙が、季節を問わず写真に残したくなる風景を作り出しているのですね。
私も新緑から深緑と移り変わるこの桜を撮り続けたいと思っています。
これで、今年の小岩井農場桜情報を終了させていただきます。
これまで桜情報をご覧いただいた皆様、ありがとうございました。
(高山)

もう一枚。
地元のカメラマンさんたちが数人いて、岩手山が顔を出すのを待っていらっしゃるようでした。
今年はいつまで楽しめるのでしょうか?
改めて強い生命力を感じます。
(高山)
小岩井農場のホームページwww.koiwai.co.jp
歴史・あゆみ
小岩井農場は1891(明治24)年の開設。
共同創始者である小野義真(日本鉄道会社副社長)、岩崎彌之助(三菱社社長)、井上勝(鉄道庁長官)の三名の頭文字をとって「小岩井」と命名されました。その後、1899(明治 32)年からは岩崎久彌が小岩井農場を継承し場主となり、その責任のもとで最も信頼できる者を経営にあたらせることとなりました。 開設当時、小岩井農場周辺は不毛の原野でした。冷たい西風が強く吹く、極度に痩せた酸性土壌と湿地が人間による開発を拒んできたのです。そのため、新墾地の土壌改良を行ない、湿地に暗渠排水網をはりめぐらせるとともに、圃場や施設を守るための土塁を築く等、基盤整備に数十年を要しました。中でも防風・防雪林の植林は、やがて農場面積の三分の二を目標として、本格的にスギ・アカマツ・カラマツの植林を行う山林事業へと発展してゆきます。 |
明治生まれの小岩井ブランドの乳製品 ~畜産振興をめざすブリーダーとしてスタート~ |
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本部事務所(国登録有形文化財) 1903(明治36)年の建築。宮沢賢治の長編詩「小岩井農場」(大正11年の作品)の中で「本部の気取った建物」とうたわれた。現在も事務所として使用されている。 |
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1899(明治32)年からは、当地の立地・気候風土に適合するものとして、また明治初年来の国策である殖産興業の一翼をにない日本人の体位向上に資するため、畜産振興を行うことを目標に定めます。種畜の生産供給(ブリーダー)事業を主体とし、その餌となる作物の耕作を行なうこと(これを「畜主耕従」と呼ぶ)を経営方針としました。現在に続く畜産事業の始まりです。1901(明治34)年には、オランダなどから乳用種牛を輸入し品種改良を開始。全国の種畜場・牧場などに種畜を供給しました。また、飲用乳・バター・チーズの製造技術の確立を図り、我が国の乳業事業の発展に貢献しました。 1938(昭和13)年には自立した経営を行うべく、小岩井農牧株式会社を設立し、小岩井農場はその事業所となります。 |
農林畜産業を基幹として時代に応じた多角的展開 |
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搾乳用牛舎(国登録有形文化財) 1934(昭和9)年建築当初の面影をそのまま残す。「30年後でも恥ずかしくない牛舎を」と建てられた当時最新鋭のものだったが、約70年後の今も現役。 |
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| 第二次世界大戦後、GHQの占領政策のため、農場用地約1,000ヘクタールを解放するとともに、多くの優秀な競走馬を育て経営的にも重要な柱であった育馬事業(当初軍馬用の馬匹改良という国策に応じてはじめた)を廃止しました。この経済的打撃は大きく、後に多くの事業に挑戦するきっかけとなりました。昭和30年代には種鶏事業を本格化します。 乳牛の育種改良については官主導とする政策転換に対応するため、長く事業の根幹であったブリーダー事業を終息し、生乳の増産に向け搾乳牛の多頭飼育に移行しました。また、飲用乳・バター・チーズなどの製造販売を本格的に展開することとなりました。1976(昭和51)年、この事業を分離し、キリンビール株式会社との合弁で小岩井乳業株式会社を設立しました。現在も小岩井農場の乳牛から搾った生乳は、全量を小岩井乳業(株)小岩井工場へ供給しています。 戦後、収益的に農場経営の柱となった林業も、大口需要先であった鉱山の相次ぐ閉山、外材輸入の急増という状況に対応し、資源の温存を図りつつ、環境保全・景観保全等、山林の多角的機能を大切にする方針に転換しました。この林業で培った技術をもとに、後に環境緑化エンジニアリング事業を立ち上げました。 近年は時代のニーズに応える農林畜産業の充実を図るとともに、さらにこれらの生産農場としての営みを生かした、観光事業・農場商品販売事業など、農林畜産業を主軸に複合的・多角的に事業の展開を図り、現在に至っています。 |