教育カウンセラーの独り言

今起こっている日本の教育の諸問題と受験競争の低年齢化している実態を見据えます。

☆遅すぎるシベリア抑留特措法に思う。

2010年05月26日 19時41分56秒 | 国際・政治

余録:シベリア抑留特措法

『 「帰国」を表すロシア語の「ダモイ」だ。戦後の満州(現中国東北部)で日本の将兵は、「トウキョウ、ダモイ」とソ連兵に言われ貨車に乗った。何日か後に車内に「海だ」と歓声が上がった。だがそれは日本海ではなくバイカル湖だった▲シベリア抑留者の手記はそう伝えている。それは奴隷的な強制労働をその支配の道具にするスターリンのラーゲリ(収容所)に約60万人の日本人がのみこまれた歴史の岐路だった。その後最長11年に及ぶ抑留では、約6万人が故国の土を踏めずに命を落としたという▲「極寒」「飢え」「重労働」という三重苦で語られる抑留体験だ。さらに極限状況下の政治教育は旧軍のしがらみもからんだ日本人同士の対立も呼び起こし、多くの人々に深い傷を残した。人間の尊厳をあざ笑うかのような強制労働に、賃金は一切支払われていない▲元シベリア抑留者に対し期間に応じて25万~150万円の給付金を支給する特別措置法案が先ごろ全会一致で参議院を通過し、今国会で成立の見通しとなった。抑留が始まって実に65年、生存する元抑留者8万人、平均年齢88歳といわれる中での戦後のけじめである▲「墓標すら沈みゆく湿地に埋められし戦友(とも)らよ 白骨よ いかにいま在る」。元抑留者の一人の高橋大造さんがシベリア墓参を詠んだ歌だ。まっすぐ立てた電柱も1年で何センチも沈み、傾いてしまう湿地の墓地、そこに埋まっている遺骨の行方に思いをめぐらしたのだ▲法案は死者の確認や強制抑留の実態調査を行い、後世に伝えるよう求めている。死者たちの記憶を、痛恨の国民的体験を、歴史の闇に沈ませてはいけない。』【毎日新聞 2010年5月26日 0時07分

シベリア抑留特措法今更遅いのではないでしょうか。私の母も伯母の主人もシベリア抑留に抑留されて栄養失調で水ぶくれ状態で帰国、戦後の食糧不足で体力が戻らず困ったそうです。もうあの世に行きました。スープに1枚のキャベツ入っていたのが食事だったそうです。「極寒」「飢え」「強制労働」に耐えて、生き残り帰還した人も今や草葉の下です。私のお世話になった東京築地の場外市場で水産加工業を営んでおられた内田勝郎 さんも元陸軍航空少尉で、シベリヤに抑留され戦後日本への帰還が遅れシベリヤ帰りと揶揄され、差別され大変苦労され四柱推命の大家に予言され、仕事の傍ら運命学の研究もされたそうです。今は、肺癌の手術後耳が悪くなられ困られています。なぜシベリヤに強制連行され、強制労働に従事させられたのか本当の事実を究明する必要が有ると思います。事実を解明しないと極寒の地、シベリヤ亡くなられた方々の霊も浮かばれません。戦後の日本の戦争責任や戦後補償をずっと追求し来た旧日本社会党左派の人達、売名行為か金儲けかとも批判されていましたし、日本共産党の人達もシベリヤへの強制連行の強制労働で、倒れた同胞日本人の救済をせず、見捨て今日まで放置して来たと言って過言では有りません。なぜなのか理由は分かりませんが。奇妙で、不思議なことです。ソ連、今のロシヤは、両党に取って、友党で友好国だったからでしょうか。反日的と言われても仕方が有りません。労働者の国、ロシヤ、日本人を強制労働でただ働きさせ、劣悪な極寒の労働条件と、生活環境で十分な食事も与えず、栄養失調にし、家族のある日本人を多数見殺したのは、労働者の権利を守る真の社会主義国の代表と言えるのでしょうか。みよ万国の労働者!、インターナショナルの歌は色あせ、相反する反労働者的行為です。労働者の敵、労働者への悪しき搾取です。シベリヤ抑留者の長年の精神的、肉体的苦しみと異郷の地で死んで行った人達の恨み家族の悲しみは、社会主義国家の大国でも歴史的事実を拭い去る事は出来ません。ヒューマニズムに対する大罪です。日本政府もロシヤに戦後シベリヤ抑留者への補償も求めず、シベリヤ抑留者への長年保障もせずに放置した政府の政治的責任ももちろん有ります。日本の政治家として、シベリヤ抑留者を見捨てたとしか言いようが有りません。故吉田正さん、歌手の故三波春雄さん、故黒田了一大阪府知事もシベリヤに抑留されていた人達です。日本は、海外援助ばかり大盤振る舞いする前に、シベリヤ抑留者の救済措置を考えるべきでは有りませんか。日本の政治家としての当然の義務です。もうほとんどの人は、戦後帰還してから無理が祟って、亡くなってた人達や年齢的に亡くなった人も多く、生き残った人達も御高齢でお迎えが近い年齢の方々ばかりで葉有りませんか。生き証人となって頂く方々も少なくなっています。シベリヤで亡くなられた遺骨収集や供養を早急に政府が中心になり実施すべきです。歴史的事実をもみ消したら、政治家の政治責任が後世に問われます。ロシヤも誠意もシベリヤ抑留問題に協力して欲しいと思います。そうでないとソ連、ロシヤは、恐ろしい閉鎖的な社会主義国家、共産主義国家の怖いといつまでも抑留者や家族の人達に思われるでしょう。真の日本との友好、信頼関係は、今後築けないのではないでしょうか。シベリヤの極寒地で亡くなられた皆様方の御冥福を心からお祈り申し上げます共に、一日本人として故吉田正氏作曲の『異国の丘』、竹山逸郎さんの歌を捧げます。歌詞を掲載すると著作違反になるそうですので、掲載しませんが、そのような事を言う日本人は国賊です。『異国の丘』の歌を『遺骨の丘』の歌と思う若者も最近いて情け無くなる昨今の日本人の姿です。日本の歴史的事実が正しく伝わっていないのです。それでも日本人か言いたくなります。今の世の中魂を売り渡した国際派と名載る日本の知識人ばかりです。日本の国を憂います。

  • 異国の丘     竹山逸郎 1971

    昭和歌謡 懐メロ 流行歌 竹山逸郎 異国の丘. URL. Embed ... 異国の丘. 20,473 views. wagamasurao800 www.youtube.com/watch?v=LNi-FDIxDP

  • 異国の丘

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

    異国の丘』(いこくのおか)は、シベリア抑留の兵士の間で歌われていた日本の歌謡曲の楽曲であり、およびそれをモチーフとして1949年(昭和24年)に製作・公開された日本の映画である。

    歌謡曲 作詞作曲

    増田幸治作詞(佐伯孝夫補詞)、吉田正作曲。

    1943年(昭和18年)に陸軍上等兵として満州にいた吉田正が、部隊の士気を上げるため作曲した「大興安嶺突破演習の歌」が原曲である。戦後、シベリア抑留されていた兵士の間で歌われ、抑留兵のひとりだった増田幸治が作詞した。非常に強い望郷の思いを歌っている。原題は『昨日も今日も』である。

    歌唱

    竹山逸郎中村耕造の歌唱で、1948年(昭和23年)10月、ビクターレコードから発売された。

    シベリアから帰還した兵士の一人中村耕造が『NHKのど自慢』に出て歌ったことから有名となった。様々な歌手によって歌い継がれている。

    • [i] 異国の丘(竹山逸郎/中村耕造)

      ... 佐伯孝夫 作曲:吉田 正、編曲:清水保雄 唄:竹山逸郎/中村耕造 昭和22年(1947)発売 作曲家の吉田正がシベリア抑留時代に書いた作品で、 ... 異国の丘 竹山逸郎 1971. 18,002 views. R2Radio. A... www.youtube.com/watch?v=55QNwniCksI

    異国(竹山逸郎)歌詞: 今日も暮れゆく異国に ... 異国 竹山逸郎 歌詞情報 - goo 音楽. gooトップ. サイトマップ ... 『今日も更けゆく 異国に. 夢も寒かろ 冷たかろ. 泣いて笑うて 歌って耐えりゃ』 <a href="http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND70972/index.html" title="異国の丘 秋川雅史 歌詞情報 - goo 音楽" target="_blank">異国の丘 秋川雅史 歌詞情報 - goo 音楽

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    大地震、まず火の始末」勧めず…退避行動検証

    2010年05月26日 14時43分20秒 | 社会・経済
    読売新聞2010年5月26日(水)00:10

    「大地震、まず火の始末」勧めず…退避行動検証
    (読売新聞)

     大きな地震発生時に身を守るためにとる行動(退避行動)の有効性を検討していた文部科学省の専門家部会は25日、揺れの最中には、これまで推奨されてきた「火を消す」「非常口を確保する」よりも無理して動かず、頭を保護するなどけが防止を最優先すべきだとする報告書をまとめた。 地震に見舞われた時、広く知られる「グラッと来たら火の始末」の標語のように動いた結果、家具の下敷きになったり、割れたガラスでけがをしたりする例がたびたび報告されている。こうした昔からの伝承や経験則に基づく行動が、地震時の退避行動として適切か、専門家部会は過去の学術研究をもとに検証した。 報告書によると、震度6級の大きな揺れになると7~8割の人は動けなくなり、動けたとしても、行動は制限されているとして、「机の下への避難」は、近くに机がない場合は「推奨できない」と判断した。「火を消す」については、都市ガスで自動消火が普及しているため優先度は低いとした。 「外に出ない」の是非については「耐震性がある住宅では、外の方が危険」とし、出ないことを推奨。その根拠として、阪神大震災で、新しい耐震基準を満たした建物での犠牲者が報告されていないことを挙げる。 今回の報告書は、耐震補強されていない住宅での退避行動の検証は十分でない。高層ビルで、ゆっくりと大きく揺れる「長周期地震動」の場合、家具が室内を何往復も移動する危険性も指摘している。 専門委員を務めた東京大・田中淳教授(防災情報学)は、「あらゆる状況に当てはまる避難行動はない。身を守るためには、耐震補強や家具の固定などの事前の対策が一番確実」と語った。』

    私は、1995年(平成7年)1月17日午前5時46分52秒阪神・淡路大震災を自宅で体験しましたが。寝ていてサークラインの紐を引っ張り、明るくしようと思いましたが停電になり、左側において有ったのブレャーが落ちて来て左手で顔を防ごうとして、左の肉離れで一ヶ月治療に掛かりました。実際阪神大震災級の地震ですと、ゴーツと言う気味悪い音がして、縦揺れの後横揺れが怖くて身動きも取れません。皆地獄見たと言われます。寝ていた人が多いので、頭や、顔に布団をかぶせる余裕もなかったのではと思います。後余震が続きましたし気味の悪さ一生思い出に残る地震体験で、阪神・淡路大震災のような大地震ですしと何も出来ないと思います。阪神・淡路大震災を経験した人でないと大地震の恐ろしさは分かりません。大地震の経験が精神的なトラウマとして、一生の残る経験では無いでしょうか。火の始末と昔から言われていますが、地震いつ起こるか分かりません。実際に地震を体験したものしか大地震の怖さやものすごさは分かりません。阪神大震災を体験した子供達も大人もその後兵庫県以外のところへ行っても午前5時46分頃になると目が覚めて困ったと言われています。あの気味悪い大震災の地鳴りは一生皆さんは忘れられないと思います。心的外傷後ストレス障害(しんてきがいしょうごストレスしょうがい)PTSDPost-traumatic stress disorder)に阪神大伸代新語大伸最後大伸

    大地震に備えて枕元には懐中電灯とラジオと水を置いておく以外対処法は有りません。大地震の予測は、今の科学技術を駆使しても難しいのが現状です。超能力者の予言も当たったことは本当に無いでは有りませんか。大地震や大火災の予言は多いと思いますが。本当の超能力者は、日本にはいないと思います。私は、今まで本当の超能力者にお会いしたことが有りませんが。大地震と戦争は、実際に経験していないと分からないと思います。理屈では現実が理解出来ず、分からないここと思います。下記に阪神大震災の様子が克明に記述されていますので、下記に掲載させて頂きました。

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

    湊川熊野橋東側すぐ南・トポス東山店前
    中山手通 にしむら珈琲店前
    生田新道 東急ハンズ三宮店東側
    二宮・神戸経理コンピューター専門学校近く

    阪神・淡路大震災(はんしん・あわじだいしんさい)は、1995年(平成7年)1月17日)に発生した大規模地震災害兵庫県南部地震」に対し、政府によって閣議了承された名称である。

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    概要 兵庫県南部地震は、1995年(平成7年)1月17日午前5時46分52秒(日本時間UTC+9)、淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として発生したM7.3の大地震。

    この地震は、兵庫県淡路島本土南東部(阪神間神戸芦屋西宮尼崎宝塚伊丹川西三田猪名川町)、東播磨地方中南部(明石加古川三木稲美町播磨町高砂小野旧吉川町など)、姫路市〔旧飾磨郡夢前町家島町)・旧神崎郡香寺町)・旧宍粟郡安富町)を含む〕、大阪府豊中市を中心に甚大な被害を与えた。

    加えて兵庫県北部・中・南西部〔豊岡市〕、大阪府の北西部・東・中北部吹田市と、特に兵庫県境に近い西淀川区は大きな被害を受けた。堺市東大阪市泉州地区岸和田・震災発生前年(1994年9月4日)に開港したばかりの関西国際空港など)、更には京都府京都市亀岡市大山崎町など、近畿圏の広域に渡り大きな被害を受けた。

    特に、震源に程近い神戸市市街地〔特に東灘区灘区中央区三宮元町ポートアイランドなど)・兵庫区長田区須磨区〕の被害の様子は、日本のみならず世界中に衝撃を与えた。

    地震による揺れは、阪神間及び淡路島の一部に震度7の激震が適用されたほか、東は小名浜福島県いわき市)、西は長崎県佐世保市、北は新潟県新潟市、南は鹿児島県鹿児島市までの広い範囲で有感(震度1以上)となった。戦後に発生した地震では、南海地震1946年)や福井地震1948年)を大きく上回り、最大最悪・未曽有の被害を出した。震度7が適用された地震である上に、実地検分によって震度7の激震が適用された最初で最後の地震でもある。被害の特徴としては、都市の直下で起こった地震による災害であるということが挙げられる。

    命名 1月17日の災害発生当時、気象庁は命名規定[2]に基づき、地震を「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」(The South Hyogo prefecture Earthquake in 1995)と命名。しかし、気象庁による正式名称とは別に、毎日新聞が「阪神大震災」と呼び始め、他の報道機関の中にもこれに追随する動きが出始めた。

    一方、朝日新聞日刊スポーツでは「関西大震災」と呼称していたこともある。

    その後、政府が、今回の災害の規模が大きい事に加えて今後の復旧に統一的な名称が必要であるという観点から、淡路島地区の被害も大きかったことにより、災害名を「阪神・淡路大震災」と呼称する事が2月14日の閣議によって口頭了解された。2月24日には、5年間の時限立法として「阪神・淡路大震災復興の基本方針及び組織に関する法律(平成7年法律第12号)」が制定(即日施行)された。この時に「阪神・淡路大震災」と呼ばれるようになる。

    この名称については、「阪神」にも「淡路」にも該当しない明石市などから、「大阪市と神戸市および中間地域」「両市を含まない中間地域」いずれの意味においても「阪神」という言葉は被害の実態に即していないとの批判もある。

    被害

    • 死者:6,434名 行方不明者:3名 負傷者:43,792名

    死者の内訳は、兵庫県内6,402名(99.5%)・兵庫県外(大阪府、京都府など)32名(0.5%)

    • 負傷者のうち重傷者は県内10,494名(98.2%)・県外189名 (1.8%)
    • 軽傷者:県内29,598名(89.4%)・県外3,511名(10.6%)

    死者の県内県外の比率から見て県内の負傷者数は混乱の中、正確には数えることができなかったと推定される。

    • 避難人数 : 30万名以上
    • 住家被害 : 全壊104,906棟、半壊144,274棟、全半壊合計249,180棟(約46万世帯)、一部損壊390,506棟
    • 火災被害 : 住家全焼6,148棟、全焼損(非住家・住家共)合計7,483棟、罹災世帯9,017世帯
    • その他被害 : 道路10,069箇所、橋梁320箇所、河川430箇所、崖崩れ378箇所
    • 被害総額 : 約10兆円規模

    [3] 都市型震災としては、大都市を直撃した東南海地震以来であり、道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話などのライフラインは寸断されて広範囲において全く機能しなくなった。これ以降、都市型災害および、地震対策を語る上で、「ライフライン」の早期の復旧、「活断層」などへの配慮、建築工法上の留意点、「仮設住宅」「罹災認定」等の行政の対策などが注目されるようになった。

    元々、日本は地震大国であり、日本の大型建築物は大地震にも耐えられない構造であると分かり、1982年には大幅な建築基準法の改正が行われた。しかし、日本の建造物が安全であるとする報道に基づいた誤解をしている市民も依然多く、1982年以前に建てられたビルマンション病院鉄道の駅舎などでも広範囲にわたって倒壊・全半壊が多くみられた。

    特に神戸市の長田区においては、木造住宅が密集していた地域を中心に火災の被害が甚大で、地震直後に発生した火災に伴う火災旋風が確認されている。これにより、近隣の建物に次々と延焼して須磨区東部から兵庫区にかけても6,000棟を越す建物が焼失した。

    消火活動では上水道が断水したため、わずかな防火貯水槽を探しているうちに炎が延焼して被害が大きくなる結果となった。消防士が、断水により消防水が出ないホースを持って炎の近くに立ち尽くす姿が報道映像として残されている。

    当時の消防局には、進出路の瓦礫を除去して消防車を現場へ啓開する車両・消防ヘリコプターが十分に配備されておらず、現場への到着が遅れて重要な初期消火に失敗している。そして、各地の消防車が応援に来ても消火栓とホースの規格が合わず消火出来なかった事が問題になった。

    これら火災の原因は、一端止まった送電が一時的に再開された(すぐに止まったが)事により、倒壊した家屋などで漏電、損壊した送電機器や家電品が発火の火種になったのではないかという説もある。

    これほどの大きな被害であったのにもかかわらず、多くの研究者・専門家の間においては、「犠牲者については、地震が冬季の早朝の発生であったために交通量や火の使用が少なかったために最低限である6,000人に抑えられている」との意見がある。もしも通勤時間もしくは午後6時頃に地震が発生していたとすると死者は、20,000人を超えていたとみられている。また、老朽木造瓦屋根が無くなった場合は、死者は1/10に減少すると言われている。

    また、瓦礫の下の被災者を救出する車両が不充分であったほか、防災機関の(救急ヘリ)での搬送も少なかった(震災当日のヘリ搬送:西宮市にて1名のみ)。この搬送は大阪市消防局から緊急医薬品輸送に従事した機体が帰りに搬送したものである(62人/1週間(内、17人/3日間))[4]ゆえに、負傷者の救出・搬送が遅れることとなった。走行する自動車によって道路上の消火ホースが踏まれたため破損送水不能になる現象が多発した。震災後、兵庫県・神戸市においては、防火貯水槽が整備されて消防へのヘリコプターの活用が検討されている。

    西宮市仁川では、住宅街に面した造成斜面において大規模な地すべりが起こり、34名が犠牲になった[5]

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