時事通信 12月2日(金)16時53分配信『 宮崎空港(宮崎市)で戦時中に米軍が投下した不発弾が見つかり、国土交通省は2日、撤去処理のため8日午前7時から同空港を最大で9時間閉鎖すると発表した。同空港を発着する21~51便に影響が出るという。
国交省によると、不発弾は米国製250キロ爆弾(直径30センチ、長さ120センチ)で、11月25日にケーブル設置のため掘削工事中、東西に延びる滑走路中央付近の約50メートル南で見つかった。
陸上自衛隊が処理に当たるが、2時間半~9時間かかる見通し。不発弾から半径400メートル以内が立ち入り禁止となる。』
今の日本の空港は、旧帝国海軍航空隊や旧帝国陸軍航空隊の飛行場を継承したところがほとんどです。宮崎空港は、宮崎海軍航空隊(のち松島海軍航空隊)(陸上攻撃機)の 飛行場でした。『元日本海軍航空基地であり、零式艦上戦闘機など用の掩体壕が現存している。これは空港沿いを走る国道220号から容易に観察できる。基地時代は滑走路2本ないしは3本を持っていたようである。終戦直後の航空写真では現在の東西の滑走路の他に北西~南東方面への滑走路が前述の現存する滑走路にクロスする形で東西2本(東側の1本は不鮮明)存在していた。現在、西側の滑走路跡を一ツ葉有料道路が横切っており、痕跡を鮮明に確認することができる。東側の滑走路跡は空港北側の建造物の区画にその名残が見られる。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より一部引用』と言うことでアメリカ空軍の爆撃を受けた為に米国製250キロ爆弾が、戦争の置き土産として出てきたのも不思議では有りません。戦後の不発段処理がなされないまま放置されていたのでは有りませんか。それだけ沢山の爆弾が艦載機かB29爆撃機か分りませんが、旧海軍航空隊の宮崎飛行場に爆弾が投下されたと言う太平洋戦争、大東亜戦争の歴史的証言と思います。
宮崎空港 Miyazaki Airport | |||
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IATA:KMI ? ICAO:RJFM | |||
概要 | |||
空港種別 | 公共 | ||
設置/運営者 | 国土交通大臣 | ||
国・地域 | 日本 | ||
所在地 | 宮崎県宮崎市 | ||
建設年 | 1943年 | ||
所在部隊 | 宮崎県防災救急航空隊 宮崎県警察航空隊 | ||
標高 | 6 m / 19 ft | ||
座標 | 北緯31度52分38秒 東経131度26分55秒 / 北緯31.87722度 東経131.44861度 / 31.87722; 131.44861 | ||
ウェブサイト | |||
滑走路 | |||
方向 | ILS | 全長×全幅(m) | 表面 |
09/27 | I | 2,500×45 | 舗装 |
宮崎空港(みやざきくうこう Miyazaki Airport)は宮崎県宮崎市にある空港で、空港法第4条1項5号に該当する空港として政令で定める空港に区分されている。
概要
宮崎市の南部、海岸地帯にある。市の中心部からの距離は約5kmと至近距離である。福岡空港などと並んで、全国でも利便性の高い空港の一つである。長距離陸上交通の不便さに加え、1960年代の新婚旅行ブームなども重なり、当初より乗降客が多く、早くから各種設備が整えられ、地方空港のパイオニア的な存在として発展してきた。「日本一のローカル空港」とも呼ばれている。
イベント会場を設け、年間100を超える各種イベントを実施。中でも世界唯一の空港コンサート「エアポート・ナイトライヴ」は、一青窈をはじめ、新旧多くのミュージシャンが行ってきた。その他にも、日本有数のギターショーや展示会、読売ジャイアンツ、福岡ソフトバンクホークス等のイベントも開催されている。
1996年に、ターミナルビルまで連絡鉄道(JR宮崎空港線)が接続されたため、ビジネス需要も多い県北部の日向市・延岡方面のアクセスも良好である。宮崎市街地とは、宮崎交通の路線バスと、鉄道の両方のアクセスがあり、路線バスは列車より便数が多い。観光需要の多い宮崎県総合運動公園(巨人キャンプ地)・青島・日南市方面や、小林市方面、都城市方面へも路線バスが通じる。
空港ターミナルの運営は、地方空港で唯一民間主導の会社「宮崎空港ビル」(宮崎交通と全日本空輸で50%超)で行っている。
独立行政法人 航空大学校の宮崎本校キャンパスが滑走路北側にあり、ビーチクラフト式A36型訓練機(ボナンザ)によるエアライン・パイロットの養成が行われている。空港ターミナルや国道などからタッチアンドゴーなどを含む離発着訓練の様子を観察できる。ときには新人訓練生らのやや不慣れな着陸を見ることもでき、そのような機体が無事着陸すると、一般利用客から拍手が起こることもある。
年間利用客数は、国内2,956,254人、国際67,790人(2007年度)[1]。
歴史
太平洋戦争中は日本海軍航空基地であり、航空機(零式艦上戦闘機など)用の掩体壕が現存している。これは空港沿いを走る国道220号から容易に観察できる。基地時代は滑走路2本ないしは3本を持っていたようである。終戦直後の航空写真では現在の東西の滑走路の他に北西~南東方面への滑走路が前述の現存する滑走路にクロスする形で東西2本(東側の1本は不鮮明)存在していた。現在、西側の滑走路跡を一ツ葉有料道路が横切っており、痕跡を鮮明に確認することができる。東側の滑走路跡は空港北側の建造物の区画にその名残が見られる。
1970年代から滑走路を2500mに延長する計画があったものの、漁業補償で難航し、新田原基地などへの移転も検討されたが、県は立地条件を最重視したため、かなりの時間を要しながらも現空港での滑走路延長となった。
2011年1月、空港の西方にある新燃岳噴火による火山灰が飛来した。滑走路に積もった火山灰が飛行機のエンジンに詰まることでエンジンが止まる可能性があるため滑走路が閉鎖され、航空大手3社で26日には計4便[2]、27日には計14便が欠航となった。1月28日は全便運休[3]となり、1月29日以降も一部の飛行機が運休し、運航されたとしても出発地への折り返し(ANA・JALのすべての便・JACの福岡発便が該当)や、福岡空港(JALの東京発・大阪発の便が該当)や熊本空港(SNAのすべての便が該当)・鹿児島空港(ANAのすべての便・SNAのすべての便・JALの東京発便と福岡発便・JEXの大阪発の便が該当)への着陸地変更の可能性のある条件付き飛行となっていることから、1月28日以降、全日本空輸 (ANA) ・日本航空インターナショナル (JAL) とも、宮崎空港行きの飛行機が大幅に遅延もしくは運休した場合に鹿児島空港発着の飛行機の切符に振替が可能となった。これに伴う鹿児島空港への移動手段として、ANAは宮崎空港~鹿児島空港間の無料シャトルバスを運行し、JALは宮崎市内と鹿児島市内を鹿児島空港経由で結ぶ高速バスはまゆう号を利用しての振り替え輸送を行う(「はまゆう号」の運賃はJALが負担する)ことが発表された(1月31日以降は、ANAも「はまゆう号」で宮崎空港~鹿児島空港間を移動した利用者の料金を負担することを発表)。
- 1943年 旧日本海軍赤江飛行場として建設。
- 1954年 航空大学校の訓練飛行場として開港(宮崎飛行場)
- 1961年 第2種空港として指定。滑走路長1,500mに延伸、供用開始。
- 1963年 ターミナルビル完成
- 1966年 滑走路長1,800mに延伸、供用開始、地方空港初のジェット化、地方空港初の管制のレーダー化。
- 1979年 滑走路長1,900mに延伸、供用開始。
- 1990年 滑走路長2,500mに延伸、供用開始、同時に新ターミナルビルも完成。
- 1996年 九州旅客鉄道(JR九州)宮崎空港線開通
路線
航空会社名が2社以上の場合、最前の航空会社の機材・乗務員で運航する共同運航便
国内線
- 日本エアコミューター (JAC)
かつての定期就航路線
行き先 | 旅客数 | 国内線順位 |
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東京国際空港 | 約143万人 | 上位13位 |
大阪国際空港 | 約67万人 | 上位39位 |
国土交通省 平成19年度航空運輸統計速報(平成20年6月26日)、上位50位までを記載。