乗りものニュース 1月21日(木)6時10分配信
零戦、日本の空に復活なるか 国内での動態保存に向け初飛行まもなく
まもなく日本の空を飛ぼうとしている旧日本海軍の戦闘機「零戦」(写真出典:ゼロエンタープライズ・ジャパン)。
世界でも希少な飛行できる零戦
まもなく、日本の空を「零戦(三菱零式艦上戦闘機)」が飛びます。
零戦を日本で動態保存(動く状態で保存)することなどを目的とした「零戦里帰りプロジェクト」。それを運営する(株)ゼロエンタープライズ・ジャパンは、旧日本海軍の戦闘機「零戦」の初飛行を2016年1月27日(水)、海上自衛隊の鹿屋航空基地(鹿児島県)において実施する予定であることを明らかにしました。
平成の「零戦」から「烈風」へ 進化する三菱F-2
パイロットは、アメリカから零戦の操縦資格を持つスキップ ホルムさんを招聘。同日中に初飛行を含む2~3回の試験飛行が計画されており、予備日として28日(木)、29日(金)を確保しているとのことです。
今回、日本の空を飛ぶことになる零戦(二二型)は、パプアニューギニアで発見された機体をベースに8割を新造した、世界でも希少な飛行できる零戦です。これまでアメリカでエアショーや映画撮影などに活躍し、映画『パールハーバー』でも航空母艦「赤城」飛行機隊所属の零戦として出演しました。
零戦、日本の空に復活なるか 国内での動態保存に向け初飛行まもなく
1939(昭和14)年に初飛行し、1万機以上が製造された零戦。現在も飛べるのはわずか3機(写真出典:ゼロエンタープライズ・ジャパン)。
前人未踏「日本で飛ばし続けること」
この零戦の現オーナーである石塚政秀さん(ゼロエンタープライズ・ジャパン)は「日本における零戦の動態保存」を目的に、3億5000万円の私財を投入してそれを購入。2014年11月4日深夜に日本への入国を果たし、その2週間後の11月21日、分解状態ながら日本で初めて一般公開されました。
そして2015年2月には、インターネットを活用した募金活動「クラウドファンディング」によって1018人の支援者から2344万4000円を集めることに成功。日本の空へ零戦を飛ばすため、その資金を元に機体の組み立て、法的な問題の解決にあたっていました。
ただ本来、早ければ戦後70年の節目であった2015年中に飛行できる予定でした。それが延びた理由について、オーナーの石塚さんは次のように話します。
「零戦の整備、エンジンの始動も地上走行も2015年7月初旬には完了。国交省航空局の実機検査を行って8月にも飛行が可能な状態にありましたが、残念なことに諸般の事情から断念せざるをえない状況になりました。また航空局の担当者が交代になったこともあり、再び最初から実機検査を行いました。そして12月18日に許可が下り、度重なる折衝を経て1月15日に飛行の日程が決定。今度こそ初飛行の段取りが全て整い、ようやく皆様にそのご報告ができるようになりました」
旧軍の戦闘機が日本を再び飛ぶこと自体は、これまでしばしばありました。しかし「日本で飛ばし続けよう」という試みは、全てが頓挫しています。
しかし今回、ついに「零戦を日本で動態保存する」という難事業が、前人未到の一歩を踏みだそうとしています。
零戦はある意味、寺社仏閣と同じ
このプロジェクトの今後について、零戦の現オーナーである石塚さんはさらに次のように語ります。
「飛行のための実機検査までで、クラウドファンディングや募金による資金は底を突いてしまいました。また折衝の問題から情報発信が不可能だったため、一切の支援募集活動ができませんでした。現在の活動は、全て自腹で進めている状況です。これから色々な情報を出していけると思いますが、半年のロスは零戦の国内動態保存、そして日本の近代における技術革新とその背景にある歴史をより多くの人々に知っていただくという目的には、大きなブレーキになってしまいました。ここからどれだけプロジェクトを立て直せるか分りませんが、我々ができる限りのことはしたいと思っています。今後もより多くの皆様にこの活動の意義を知っていただき、零戦の動態保存が可能になることを心から希望しています」
石塚さんは私財の多くを処分してまで、なぜ零戦を日本に持ち込みたかったのでしょうか。それはひとえに、寺社仏閣や城塞と同じように「日本の遺産」である「零戦」を守りたかったからだといいます。
1月27日(水)に予定通りこの零戦が日本の空を飛んだならば、今後は日本各地のエアショーでの飛行展示、動態保存を行っていくための新たな事業が始まります。
しかし事業の主たる収入は、有志による寄付金に頼らざるをえません。また本機はアメリカ連邦航空局に登録された米国籍の機体であるため、一旦、アメリカに機体を戻す必要があるといいます。
プロジェクトを進めるゼロエンタープライズ・ジャパンは企業や団体、個人などから幅広くスポンサーを募集しているといいますが、今後はたして日本で零戦を半永久的に飛ばし続けることができるのか、そのゆくえが注目されます。関 賢太郎』
世界の名戦闘機ゼロ戦、生産していた製造元の現三菱飛行機に資金面での支援と今後整備、補修のサポートを仰がないと日本国内での飛行は、難しいのでは有りませんか。ゼロ戦は、名戦闘機で有りながら防御、防弾装置が無く、撃墜王坂井三郎氏や岩本徹三氏も負傷し多くの搭乗員が戦死したのも事実です。
ja.wikipedia.org/wiki/零式艦上戦闘機 -より一部引用
[編集]. 1942年(昭和17年)6月、アメリカ軍はアリューシャン列島のダッチハーバーに 近いアクタン島の沼地に不時着した零戦(アクタン・ゼロ)をほぼ無傷で鹵獲することに 成功した。この機体の徹底的な研究により、零戦が優れた旋回 ...
防弾
防弾装備の追加は、防弾タンクや自動消火装置の実用化が遅れていたことや、開戦から一年も経たずにガダルカナル島で始まった連合国軍の反撃に対応するため、改修による生産数や飛行性能の低下が許容できず先送りされた。ただし1943年(昭和18年)末生産開始の五二型後期生産型から翼内タンクに炭酸ガス噴射式の自動消火装置を、翌1944年(昭和19年)生産開始の五二型乙から操縦席に50mm防弾ガラスを付加、更に五二型丙からは座席後方に8mm防弾鋼板を追加し、一部の機体は胴体タンクを自動防漏式にしているが、結局終戦まで十分な防御装備を得ることができなかった。
零戦は徹底した軽量化による機動性の向上を重視して開発されたため、防弾燃料タンク・防弾板・防弾ガラス・自動消火装置などが搭載されておらず、F4Fワイルドキャットなど同世代の米軍機に比べ、被弾に弱かった。後述のように初陣から防弾の不備は搭乗員から指摘されており、その後の改修でもしばらく防弾装備は後回しにされていたが、五二型以後は装備されるようになった。 ただ、零戦は涙滴型の風防を備えており、特に後方視界が広く取れたため、同時期の他国戦闘機と比して後方警戒がしやすい利点があった。運動性能と視界の良さを生かして、攻撃を受ける前に避けるという方法で防御力の弱さをカバーするパイロットも多かったが、それには熟練の技術が必要で、また限界もあった。防弾を増設する場合も、他の能力が失われてかえってパイロットが危険になるため、難しい問題だった。
設計者堀越二郎は、開発時に防弾を施さなかったことは、優先順位の問題であり、戦闘機の特性上仕方がないと語っている[8]。当時大馬力エンジンがなく、急旋回等で敵弾を回避することもできる戦闘機では、防弾装備は他性能より優先度が低いため、海軍からも特に注文もなかったという。防弾装備が必要とされたのは搭乗員練度の低下によるもので、分不相応なものだったと回想している[9]。技術廠技術将校岸田純之助は、パイロットを守るために速力や上昇力、空戦性能を上げて攻撃を最大の防御にした、防弾タンクやガラスを装備すれば敵に攻撃を受けやすくなる[10]、日本の工業力から見ても零戦の設計が攻撃優先になったのは仕方ない選択、日本は国力でアメリカに劣っていたため、対等に戦うにはどこか犠牲にしなければならない、防御装備には資金がいるので限られた資源でどう配分するか常に考える必要があったと語っている
^ 武装強化や防弾装備の追加等を行ったが、その重量増加に見合う発動機出力の向上ができなかったため、最高速度や上昇力などの飛行性能を大幅に向上させることができなかった。