2011年9月25日(日)、テレビ朝日「サンデーフロントライン」に小出裕章氏がVTR出演されました。コメント欄でしんちゃんより頂いた情報を、掲載いたします。
録画
※まだ掲載できていません。
内容文字おこし
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‘反骨の3人による明日への伝言 原発事故後の未来’
「原発はいらない」
ナレーション: 京都大学原子炉実験所の小出さんの研究室は昼間でも薄暗い。節電のためエアコンや照明はほとんど使わないという。62歳の小出さんは37年間原子力の研究を続けてきた。しかし、現在の肩書は助教。昔でいう助手のままだ。
小出「原子力をやるとこんな危険がありますよ。こういう放射能の汚染を起こしますよ。だから一刻も早く原子力をやめるべきですよ・・と言い続けてきたわけですね。残念ながら事故は起きてしまったのですね。ですから私にとっては今年は自分がやってきた仕事が最終的に敗北したというそういう年です。」
ー小出氏が原子力に飛び込んだ1968年は日本の原子力の黎明期。小出氏も未来のエネルギーは原子力しかないと固く信じていた。ところが研究を始めてすぐ、ある重大な疑問にぶつかったという。
小出「今から思えば大変単純なのですが、原子力発電所というのは都会で引き受けることができない危険を抱えていると、過疎地に建てるしかないということで原子力というものは進んできたということに私が気がついた、というかそれを知ってしまったわけですね。そうなると、私としては到底認めることができないと思いましたので、180度私の人生はそこでひっくり返しました。」
ーこうして原発をなくすために研究を進めた小出氏には、同じ志を持つ5人の仲間がいた。彼らは「異端の研究者」と見なされ、それは研究費や昇進にも露骨にあらわれた。彼ら6人は原子炉実験所の所在地大阪府熊取町にちなみ、‘熊取6人組’と呼ばれるようになった。これは中国で起きた文化大革命の江青ら4人組になぞらえた呼び名だ。
小出「6人組と呼ばれた私達のグループにシンパシーを感じて一緒に行動しようとして来てくれた人も実は何人かいる」
(後輩とか?)「はい、いるんですけれども、私はその人を積極的に誘わなかったのですね。その、自分達のグループに入れと、えー、それはまあ言ってみればそういう後ろ指を指されるグループに入ってしまうと研究費が取れないとかですね、そういうことはある。まあ、あたりまえのことであるわけです。」
ー原子力の危険性を訴え続けた37年。しかしその声は届かなかった。
小出「あまりにも力が足りなさすぎたんですね。まあ、マスコミの人もそうだけど、あのー、私達の言うことは何も取り上げてくれない、まあ、政府、電力会社、巨大企業の言うことを聞いてマスコミもずっと報道をしてきた。」
ー重大な事故が起きた今、全ての原発を止めるべきだと小出氏は全国を訴え歩いている。
小出(9月22日津田塾大講演)「私達日本人はだまされ続けてついに福島の事故も防ぐことができないで、今、変わり果てたこの場にいます。私もそうだし、皆さんもそうです。どうやってこれから生きていくかということを、特に若い学生の皆さんには十分考えてほしいと思っています。」
ー一方野田政権は、安全性の確保と地元の理解を前提に原発を再稼働させる方針だ。全ての原発停止は電力供給に支障をきたし日本経済が立ち行かないという意見が根強い。現在福島第一原発は循環注水システムが機能したことで、一号機の圧力容器の温度が100℃以下になるなど収束に向かっているとされる。しかし小出氏は本当の事故収束への道のりは険しいものだと指摘する。
「廃炉廃炉といわれていますが、いつごろできるんですか?」
小出「(笑い)できません。何十年か後ですね。」
ーアメリカで起きたスリーマイル島の事故では、炉心の半分が溶けて圧力容器の底に溜まった燃料を取り出すまでに11年もかかっている。一方、福島第一原発でも溶けた燃料は圧力容器の底に溜まった。ところが福島ではこの圧力容器も損傷し、溶けた燃料が格納容器にまで落下したとみられている。
小出「抜け落とさせて下に落ちちゃっているわけですね。そうなるとスリーマイル島のような回収作業は絶対できません。全くできない。で、どうしていいか実はわからない。」
ー防げなかった破局的な原発事故。我々はここから何を学ぶべきなのか
「未来への提言を最後にお願いしたいんですが。」
小出「ウソをつかない。人に対してもウソをつかない。自分に対してもウソをつかない。もし間違えたらば謝ると、それさえできていれば原子力なんてあり得なかったと私は思います。全く安全でもないものを「安全です。絶対事故は起こしません」と言い続けて原子力を進めてきたわけですね。」
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