◼️「メーテルレジェンド 交響詩宿命 第一楽章」・「第二楽章」(2000年・日本)
声の出演=雪乃五月 池田昌子 榎本温子 潘恵子 松山鷹志
(第一楽章)
「銀河鉄道999」は他の松本零士作品と関連がある。それぞれを読んでいた当時は、関係を感じさせるひとコマを見て、そうだったのか!と驚いたり感動したり。OVAとして発表された本作はメーテル、エメラルダス、女王プロメシュームとの関係を描いた「銀河鉄道999」の前日譚。
長大な楕円軌道をもつ惑星ラーメタルは、太陽に近づく期間がわずかしかない。人工太陽にも限界があり、寒さに凍えて滅びを待つばかりであった。生き延びるために機械の身体になり、国民にも機械化手術を受けさせることを選んだ女王。しかしその裏には機械人間ハードギアの陰謀があった。女王の2人の娘は陰謀に立ち向かうことを決意する。
本編となる各作品への思い入れが強い人向き。「999」本編を知らずに、時系列で「メーテルレジェンド」を最初に見ると「999」のミステリアスな面白さが半減してしまうだろう。だがオールドファンが本作前後編を観て、劇場版「
銀河鉄道999」第1作を再度観ると、感慨深いものがあるに違いない。
前編はラーメタルの人々が機械化を選択せざるを得なかった事情が語られる。自ら滅びる選択はできないだけに、確かに仕方なかったのかもしれない。しかし、機械が体内で自己増殖を始めて、プロメシュームの身体から人間としての感覚や感情が失われていく過程が見ていて辛い。生身の人間が次々と命を奪われていく様はホロコーストと重なって見える。
メーテルと言えばあの黒服なのだが、その白服で登場するのも印象的。二人の娘を助ける老人はヤマトの沖田艦長を思わせるキャラデザイン。老人が造る光線銃は、"戦士の銃"コスモドラグーンの原型。
10代の頃、松本零士の描く女性を何度も描く練習した。特にあの眼を描くのに力が入るから、自分で描くと眼が大きくなりがちでバランスが悪い。スッとしたあの顔にならなかったっけ。本作をディスする気持ちはないけれど、本作のメーテルとエメラルダスの作画も眼がデカいw。でも眼をちゃんと描いてこそ松本作品の女性なのだよ。
(第二楽章)
メーテルとエメラルダスが機械人間の陰謀に立ち向かう物語の後編。機械人間ハードギアの支配はなおも続く中。女王プロメシュームの身体は次第に機械に支配され、人間としての母としての感情が失われようとしていた。ハードギアの魔手から娘を逃れさせようと脱出することを勧める女王だが、娘二人は悪に立ち向かう、母を救いたいと首を縦に振らない。正気を失いつつある女王と娘に決断の時が近づいていく。
松本零士のメカ表現は、「999」の機関車内部に見られるように無数の計器やインジケーターが描かれることだ。子供の頃はよく真似て描いて楽しんでいた。しかし、本作ではそれらがプロメシュームの美しい身体からケロイドのように浮き上がってくる。この場面は、前作から続くホロコーストを思わせる描写と重なって不快な気持ちにさせられる。
娘を思う気持ちを口にした次の瞬間には、ハードギアの命令に従い、メーテルに殺意をむき出しにする。母に銃を向けてでも立ち向かうと言うエメラルダスと、それでも母を救えないかと迷うメーテル。葛藤のドラマはますます混沌としていく。
二人を助ける老人ダガーとその息子も印象的な存在。「メーテル様のおかげで人間の心のまま死ねます」のひと言に泣ける。
プロメシュームが正気に戻るたびに、それまでの会話が蒸し返されるので、中盤は話が遅々として進まない印象を受ける。しかし、脱出艇を失った後、惑星ラーメタルに停車しなくなっていた999号で二人を脱出させることを思いついてから、ドラマは一気に濃厚さを増していく。悪党ハードギアと対峙する女王プロメシューム。劇場版「999」でお馴染みのあの姿になる瞬間が訪れる。そしてプロメシュームが娘に告げる遺言とも言えるひと言が重い。そして空からあの汽笛が聞こえてくる。
母から託されたトランクを開けるラストシーン。「銀河鉄道999」「宇宙海賊クィーンエメラルダス」「新竹取物語1000年女王」の物語が繋がっていく。ドクターバンが封じ込められたペンダント、機械伯爵も登場。
(蛇足ながら)
松本零士のこうした作品でテクノロジーの発達とそれに支配される人間の構図を散々見てきた僕ら世代は、現実世界でDXやら生成AIやらデジタル化の波に直面している。結構なことだし、合理的で便利なのは間違いない。でも、一方で失われるものがありはしないか、とつい思いを寄せてしまうのだ。ツールとして使いこなせればいいけれど、応酬の為だけに国会答弁がAIで生成されたり、芸術作品が機械によって模倣を繰り返されたり、いろんなお伺いをAIに委ねてそれに盲目的に従ったりする未来が来やしないか。そんな思いが心のどこかにある。大袈裟なのは百も承知だが、松本零士作品に触れることは、そうした未来を人間の気持ちに寄り添ったものにしていく良心回路になるのかもしれないな。