ステージおきたま

無農薬百姓33年
舞台作り続けて22年
がむしゃら走り6年
コントとランとご飯パンにうつつを抜かす老いの輝き

疲れる!東京

2016-09-05 08:37:48 | 世の中へ

 一年ぶりの東京。いつ行って疲れる街だなぁ。待てよ、街って当たらないか。広すぎて境界も周辺もなくて、ただベローっと広がってる都会域。東京駅に降り立っても、京浜東北線に乗っても、大森駅界隈を歩いても、間違いなく東京だし、疑いなく東京そのものじゃない。なんともとらえどころなくて、まず、そのことに疲れる。

 よく言われることだけど、東京じゃ歩くしかない。交通機関は発達しているが、その間の連絡はすべて歩き。昨日は午前11時発の目的地直行・帰還の日帰り直行便だったが、それでもなんと6473歩(へへへ、早速ガーミンランニングウオッチ着用だよ)も歩いた。距離にして4キロ弱、これ田舎じゃウオーキングでもしない限りとても達成できる数字じゃない。しかも、階段の上り下りがやたら多い。空気が悪いからもろ手を挙げて健康的!と褒め称えるわけにゃいかないが、こちらの車移動ばっかり生活よりはよっぽど健康にはいいな。でも、さすがに疲れる。

 でも、一番疲れるのは、これまたありきたりの感想だけど、人が多いことだ。歩くのだって、右へ左へ、牛若丸の身ごなしで進んで行かなくちゃならない。ただ、運動神経にはいささか自信のある僕、もともと都会生まれ、都会育ちの僕としちゃ、人の間をすり抜けて歩くのは、それほど苦にはならない。辛いのは、行き交う人たちの圧倒的生活感だ。電車なんか乗ると、周囲を見回して、ああ、このおっさん疲れてるけど、ギャンブルで負けた帰りか?とか、これから夜のお勤めご苦労さん!とか、勤務先は中小企業?もしかして、ブラック?住居は1Kか?とか、ついつい目につく人の背景を空想してしまうんだ。

 人との距離が、田舎に比べ異常に近いってことが、まずある。まったく見知らぬ人同士が、数メートル、時には数10センチの距離にいる。こりゃどうしたって、想像力かき立てられるってもんだろう。しかも、都会の雑踏は種々雑多だ。田舎なら、農家の人、工場労働者、共働きの母ちゃん、高校生とか、って上げて行ったところですぐに出尽くしてしまうが、東京じゃそうはいかない。若者から年寄までこちらの乏しい空想力など簡単に突き破ってしまう多彩さだ。これに目が回る。頭が暴走する。

 都会に住む人たちが、こんな人間(じんかん)距離と膨大な他人に囲まれてなお疲れないのは、近づきすぎる人との間に無限バリアーを張る能力を備えているからだろう。それと、徹底的な無関心。行き交う他人にいちいち興味関心持ってたら、とても目的地にたどり着きゃしない。せいぜいが、おっ、いい女!あら、イケメン!くらいのアンテナ感度なんだ、きっと。近い距離は無視し、詮索は封印する、これが都会で生きていくうえで、絶対身に着けなくてはならない、身体能力なんだろう。いやぁ、疲れる。

 と、都会への違和感をあげつらってはみたが、久しぶりの新幹線往復、これは充実してたなぁ。片道2時間半、往復5時間、まず、次回菜の花座公演作品関係の資料本『芝居小屋と寄席の近代』倉田喜弘著の第1章を片付け、次に現在執筆中のコント3本(4本のうち1本はすでに書いた)のアイディアをひねくり出して、よしよし書けそうだぞとにんまりしたところで、東京到着。帰りは疲れてもいることだし、小説、中村文則の『王国』を読みふけって、米沢乗り換え21時49分高畠着、疲れちゃいたけど、どことなく満足感に浸されて星空の高畠に降り立った。

コメント
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