自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

イデオロギー・イメージ・モスリム

2012年09月27日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

 

星は無数、でも 一つの宇宙~再考 

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     9月27日(木)2012

 

 

今朝は、久しぶりに 明け方に 眼が覚めた。

外には、カラスの群れが飛び回っていた。 

一瞬、ヒッチコックの”鳥”という サスペンス映画のシーンを思い出した。

どこもかしこにも、カラスが群がり、

人間に奇襲をかける前兆の恐怖が日常の光景の中に、描かれていた。

カラスには、不吉とか、死とか、何か忌まわしいイメージがつきものだ。

一方その反対のイメージもある。

”カラス何故鳴くの?カラスはやまに~かわいい、七つの子があるからよ~”

という童謡を、幼いころ母が歌ってくれた。

外の原っぱで、缶けりして遊んで夕暮れ時、 母が迎えに来てきた。

夕焼け空の下、手をつないぎながら、カラスの歌をうたって帰った。

”カラスがなくからか・え・ろ・う! カエルが鳴くから、か・え・ろ。う!”” と。

その時から、カラスが 身近に感じらていた。 

母と私の背後で ”かあかあ、もう帰るじかんだよ~”と うたってくれた。

 

カラスの群れの次に、窓に、鳩の群れが映った。明け方の空を旋回していた。 

鳩は平和の象徴といわれる。

私には、迷惑ものと言われていた、イメージがつきまとう。 

 

亡くなる前の父は 数年間、実家の屋上で 鳩への餌やりが日課であった。

寒い日も暑い日も、駅ビルのパン屋で食パンのミミを大量に仕入れて

細かく、包丁で刻んで鳩にやっていた。

何10羽もの鳩たちは、近くの電線に止まって、父の姿を待っていた。 

そのため、近所からは糞公害で、クレームが出た。 

鳩が群がって 餌を食べているさまを 眼を細くして見ていた、

満足そうな父の横顔が懐かしい。 

その父の顔を見ていると近所の苦情を善処しつつ、

唯一の父の楽しみの始末に頭を痛めた。

 

人はこうして、鳥だけでなく、どんな対象にも、自分の過去や経験と繋げて、

あるイメージを持ちやすい。

国やイデオロギーにいたるまで、”何となく感じる”イメージがつきものだ。

 

2か月ほど前、韓国の友人のところへ遊びに行った。

対日本人感情は10年ほど前と比べると、ずいぶん良くなったということだった。 

以前は日本人だということで乗車拒否をするタクシーがあったという。

現在は、街のファーストフッドに入っても、日本語を操る店員がいた。

日本人の、対韓国感情も同様だ。 関東大震災で火事が発生した。

当時、韓国の人が火をつけたなどという噂が広まったことを祖母から聞いた。

韓流ブームが訪れる、遙か前、韓国に対してまだ偏見を持つ人がいた。

大学時代の友人が結婚を反対されたのも、相手が韓国籍だったからだ。

 

今はどうだろう?  

 私の生まれ育った、東京都新宿区の新大久保駅界隈は、

韓流のメッカと呼ばれるまで変貌した。

 自分の生家は、韓国のブロマイドとキムチを売る店に変身していた

 TVで放映される韓国ドラマは NHKの大河ドラマより視聴率が良いとさえ言われる。

そのおかげで、ずいぶん、韓国の歴史や文化事情が 日本人に理解されてきた。

 

知らないということは、怖い。 

カラスや鳩の話なら、問題はないが、その対象が 国やイデオロギー、

宗教に広がっていくと話は別だ。

 

私事で恐縮であるが、自分自身、宗教への偏見をなくすために、

さまざまな宗教の門をくぐった

文字通り、くぐっただけの宗教もあれば、経堂にはいって、

経文(マントラ。祈りの言葉などのたとえ)を唱えた宗教もあった。 

中でもイスラム教は10年以上、お世話になった。 

心の支えにもなった。 

マダンの月には断食もした。

モスリムしか入れない、サウジアラビアのメッカへ巡礼へ行った。

エルサレムのモスク(ゴールデン・テンプル)へは一人で行った。

モスク周辺には、警備が厳重で、私は一人の兵士に呼び止められ、

コーランの一節を唱えさせられて モスリマとしてモスクへの入室を許された。

その隣にある、キリスト所縁(ゆかり)の教会にも訪れた。 

 ある旅では、バチカン王国へ行き、ローマ法王の教会で祈りを捧げた。

インド時代、ヒンズー教を学んだ。 

ヴェーダ哲学を本源としているヒンズー教は、ある意味、ガンジス川のように、

鷹揚でもあった。

その、ガンジス川で沐浴をして、シヴァ神に祈る人たちの心と同化した。

クンバメラという、12年に一度の、ヒンズー教徒のお祭りにも参加した。

この祭りには、ヒマラヤから聖者たちも俗界に降りてきて、

聖者も求道者も、一体になって、お祭りを行う。 

 

まだ、一般の旅行者を受け付けてない、鎖国状態に近い、ブータンへ、

当時のインド全権大使、山田大使御一行とともに、訪れる機会があった。 

我が家のチュチュとチャチャ(ラサ・アプソー犬)の故郷で、

チベット密教の大師と謁見させていただき、祝福をしていただいた。

 日本に戻ってきて、これまで知識の少なかった、天成神道の勉強を始めている。 

古事記以前に書かれたとされる、秀真伝えの研究を母[須田痲沙子]に

師事して学ぶ機会も得た。

伊勢神宮で祝詞をあげ、念願の、熊野神社詣でも果たせた。

 

こうして私の真理探究欲は様々な聖地への巡礼となり、

聖書、コーラン、ダイヤモンド・スートラ(仏教・金剛経典) 

ヴェーダなどを 紐解くうちに 一つの結論に達した。

それは、

すべての宗教の真理と源は一つであるということ、体験的認識の大切さであった。

話しをもどす。 

9・11事件(アメリカ国際ビル襲撃と報道される一連の事件)以来、

モスリムは、危険思想というレッテルが一層強く貼られようだ。

それ以来、モスリムゲリラを撤去するために、飛行場での取り調べが強化された。

数年前、サンフランシスコ飛行場で、執拗に尋問を受けて不快だったと、

モスリム名を持つUCLAの先生が述懐された。

モスリムがそんなに危険なのかどうか? 

ゲリラはある特定の宗教を持っているのか? 

その話はまた、後日に譲りたい。

ここでは、モスリムの敬虔な家族を想いだすばかりだ。 

私は、イエメンの砂漠でベドウィンの家族と1日生活をともにした。

あの時感じた、彼らの友好的な穏やかな人柄と質素で平和な暮らしぶりを、

モスリムに偏見を持つ人たちにわかってもらう

のは難しいだろうと思った。

砂漠の砂の上に頭を下げて祈る姿は、ミレーの晩鐘の絵の中の敬虔な

農婦の祈りとよく似ていた。

体験してみることと、外からイメージで判断する格差があるという一例である。

 

他の例を出せば、ブータン国民の”幸せ度指数”は世界1位だという。

あの、素朴で決して物質的に裕福でない、

(私が、訪れた当時はまだテレビもなかった) 小さな国の国民が世界一の”幸せ”

を感じている。

自国の文化を大切にして、誇りを持っていきている人たちだ。

外からのイメージでは想像ができない、ブータン国民の真情だ。 

 

根拠のないイメージは怖い。

情報を流す側の”やらせ”を含めて、イメージを作るプロが、確かに 

世間に存在しているからだ。

イギリスの王室と、女王陛下のイメージを良くするために、

英国国民のマインドコントロールを、マスコミを通じて行うという

ことなどは、とてもたやすいことなのだ。

人工的に造られたイメージは、実際そこへ行ったり、

現地で生活すれば 覆(くつがえ)される程度のものだ。

 

それでも、イメージが膨らみすぎると民衆のパワーになるから恐ろしい。

イメージは想念だ。

想念というのは伝染する。

その国の常識がその国のみ通用しないのも、

国民の想念が常識化するまで、膨らんでいるからだ。

そのために、その民衆のパワーを利用する政治家たちが

革命を起こしたり、戦争を煽ったりする。

 

私たちの周りには、情報が多いだけに、情報の選択も必要だ。

やみくもに情報を受け取っていると、知らず知らず、

ブレインコントロールされていることに、気が付かない。

相手を知り、その国の生活を味わえば、どこでも、だれでも、

基本的人権を保障されて、生き生きとした生活を送りたいと

願っていることがわかる。

理解と共感が生まれ、手を差し伸べたいという愛も生まれる。

政治がらみの情報にはどこか、流した側の意図が見える。

その意図を見破らないと、民衆パワーに飲み込まれる自分を見つける。

そうならない前に、気が付いた人から、声を上げることも、だから、必要だ。

そうして、イメージを作るための意図ある情報は、

生活している人たちの心情は別のところにあるといっても過言でない。

 

私たち一人一人が賢明に、情報の真実を確認しながら、

対象物や人を知ることの大切さを噛みしめたい

知れば知るほど、理解が深まる。

相違点、類似点含めて、互いへの尊重が生まれてくる。

自分と相手の共通点が見えてくると、共感が生まれる。 

誰でも同じだ。 愛する人と、幸せになりたい、なってほしいと願う心は同じだ。

 

他者を理解するために、まず、自分を知る

キリストは言う ”己を愛するごとく、隣人を愛せよ”

己を知らなければ、己の愛し方もわからない。 

己の愛し方がわからなければ、他者を愛することも不可能だ。

やはり、そこから始めることが第一歩かもしれない。

それには、真の己れを知ること。

感じることだと思う。 

自分の中にある、素晴らしい資質を一人ひとりが自覚して

相手を愛することもでき、認めることもできるのであろう。 

                                                

                        砂漠、それは、海のように広く、砂漠に住む人たちも、心の廣い人たちだった。

 

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