自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

ギータの中のヨガ③ Sanyasa Yogaha

2017年08月14日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

 

Embracing Divinity through Renunciation : 世俗を捨てて神性を抱くヨガ

2017・8・14

*******************************************

 少しでも多くのヨガ、生活の中でできる、実践方法、いいかえると、

 神と一体になるための方法を クリシュナの言葉を借りて、これからシリーズで、

 お伝えできればと願う。

 ここでいう神とは、ヒンズー教や特定宗教の神ではない。

 クリシュナのいうところの、誰の心の中にも存在する ’Indwelling Entity',

 つまり、”内在する普遍の資質”、別名アートマ のことである。

 誰もが、アートマを心に持っているのに、ほとんどの人達は自覚していない。

 自覚したとき、その人の人生は、心身ともに一変するだろう。苦労を苦労と思わず、

 喜びの波に有頂天になることもなく、淡々と、しかも、確実にゆるぎない信念が

 生まれて、変化というより、変容するに違いない。 自然治癒力、病気の本質や

その原因も、自ずから、納得していただけると思う。

 

 

その話(前回)を聞いたアルジュナはクリシュナにこんな質問を投げかける

(5章-1)

“Krishna! 

You praise both giving up action and embracing action. 

Among these of two, which is superior? “

訳)クリシュナ!

あなたは行動をあきらめること、そして、行動をすること、双方の意義を

たたえているが、実際、どちらが勝っているのでしょうか?“

 

クリシュナは現実的にこう答える:

“Among these two, doing action is better than not doing it.

He, who neither hates nor desires is to be understood 

as an eternal renunciant. Having freed himself from the 

attraction of the opposites, he very easily frees himself 

from the bondage of action. It is the amateurs, not the scholars, 

who describe knowledge and action as different. 

He, who establishes himself firmly in any one of these two, 

gets the benefit of both. 

The final state of awareness attained by the enquirers of knowledge 

is attained by the practitioners of selfless action as also.  

Knowledge is the same as embracing divinity in action. 

He, who realizes this, has indeed realized.  

Without doing action and embracing divinity while doing so, 

it is very difficult to give up the awareness ‘I’m the doer.’

But embracing action as divinity itself and becoming skilled 

at this embrace, one rises to the awareness of Brahman promptly.”

 (5-2 to 5-6)

訳)行動する方が行動しないより勝る。

憎しみも欲望もなくなったものは世捨て人と理解されよう。

また、自分に向き合う魅惑的対象(誘惑)に左右されなければ

行動の束縛からも解き放たれる。

また、知識と行動とは別物だというものは素人(神の智慧において)

学者(熟知者)ではない。

知識か行動か、どちらかにおいて、自己をしっかりと確立したものは

双方の恩恵を受け取ることができる。

つまり、真理の知識を積み重ね、最終的に悟った人は 同時に、

無我の行動の実践者になるのである。

真理に至る知識とは、行動するうえで神性を意識しているということだ。

それを悟ったものは、まこと解脱を実践できる。

行動しているとき、同時に、神性を心に抱いていないと、

‘行動を起こしている者(行為者)は私である’ という考えをなかなか

捨てることは難しい。(須田注:行動していても、私を媒体に神が

この行為を為している~という考え方が、神を心に抱いている人の考え方)

しかし、行動は神性からなされているという考えを抱き、

それに徹することができたとき、人は即ブラフマン(宇宙神)の

智慧の高みに到達できるだろう。

 

 上のクリシュナの言葉で大切な要点をピックアップしてみると~

 

①    知識において、行動するときにおいて、神と自己の関係をしっかりと

把握したものは、双方の恩恵を受け取ることができる。

つまり、真理の知識を積み重ね、最終的に悟った人は 同時に、

無我の行動の実践者となり、解脱することができる。

 ******

 

ここでクリシュナが言う所の、知識とは、受験のために暗記したり

するような教科書に書かれている知識ではない。

サンスクリット語の言語では その知識を、ヴィディヤ と呼ぶ。

そういえば、タイ国に仏教とともに、サンスクリット語が伝わり、

タイでは、現在でも、大学をウイッタヤアライというが、もともと 

大学 で教えた事は、真理のための知識で、その場所を、勉強する

最高教育学府という意味でこのようにサンスクリット語がそのまま、

使われたのだろう。

 

②    神性の働きが基にあり、(自分は)行動しているという考えに

徹すること。

そのような行動の積み重ねで、人は即ブラフマン(宇宙神)の智慧の高みに

到達できるだろう。

 ***

自分が行動をする、が、その行動の成し手は、自分の小さなエゴではなく、

この自分を生かしている、大きな生命の力、そしてその意思、つまり,

神性が自分を使って行動している~と理解できたときは、

その人は最高の智慧(ブラフマンの智慧)を獲得できるという。

この理想的な意識を再び、繰り返して説明しているのが以下の

クリシュナの言葉である。

With mind purified and focused on divinity, with body and senses 

well controlled, he does his actions attaching himself

 to the one spirit that motivates him and all beings. 

Although he undertakes actions, he is not touched by them. 

The wise, mentally holding on to the Indweller and d

oing actions like seeing, hearing, touching, smelling, 

eating, moving about, dreaming and breathing must think 

‘I’m not the doer.’(5-7~8)

訳)心を澄ませ、自分の内奥にある、神性に焦点を合わし、

身体と感覚器官を その自分のコントロール下 において、

生きとし生けるものを生かしている宇宙の心に自分の行動の動機

を置く人。

その人は、行動していても、それに影響されることはない。

賢者というものは、気持ちは常に内なる神に全託して、見たり、聞いたり、

触れたり、嗅いだり、味わったり、動き回り、夢見たり、息をしたりして

いるが、‘私(小我)が、行為者ではない’ と考えている。

***

内なる自分の本質、Indweller を常に意識しながら行動する人は

自分が主体となってする行為ですら、’自分がなしているのではない’と

認識している。 では、誰の行為か?といえば、冒頭のクリシュナ

の言葉にあるように、Indweller の行為であると考える。

このことは、上のクリシュナの言葉の中の、

’he does his actions attaching himself to the one spirit that

 motivates him and all beings.’という言い回しに込められて

いるのだろう。

 さらに、続けてクリシュナはそのことを強調して以下のように

述べている:

 

People who do their actions embracing the Indweller purify 

their mental impulses. 

Whatever actions they do with their body, mind, 

intelligence or the senses, they do without attachment 

to the actions, results or to the feeling ‘I’m the doer.’

He, who practices the discipline of doing action as selfless 

sacrifice and who discards the desire for results from his actions, 

attains peace progressively as his discipline progresses. 

On the other hand, the person without this discipline is 

impelled by desire for the results of action and gets bound 

by action. (5-11,12)

訳)内なる神への意識を抱いて行動するものは、自然と心が清まる。

肉体的、心的、知的、感覚的な いずれの行動をとる際でも、

自分が行為者であるという思いはなく、行いや結果に対し何も執着

を持たない。

無我で、犠牲的行為を自制的に行い、その行為の代償に得る結果を

放棄する人は、修行の進展にあった、心の安寧を徐々に得ていく。 

一方、こうした自己修養に無頓着なら、欲望に促されるまま、

行為の結果を求め、その行為に縛られることになる。

 

精神的、スピリチュアルな行動だけが神の目から見て、心の安寧に

つながる、

無我の犠牲的行為ではないらしい。

肉体的な行動、つまり、本能的、生きるために必要な行動、

感覚的な行動、つまり、五感感覚が察知した刺激や情報に反応して

行動する行為、それらでさえ、無私で犠牲的行動となりえるという。

どういうことだろう?

Indweller と呼ばれる、誰の心にも座している、神性の自分を意識

して行動すれば、どんな行為も、ある意味、神に捧げる行為となる

のだろう。

犠牲というのは、自分の小さな意識、エゴ意識を犠牲として捧げること

かもしれない、。

行為の結果を求めて行為するのでなければ、その行為は”エゴ”の自分では

なく、”神性の自分が行為者” であるという意識に達するのだろう。

”肉体的、心的、知的、感覚的” の日常生活 一つ一つの行為すべてに、

それは当てはまるのだろう。

 

この章で、クリシュナは、世俗を捨てて神と一体になるヨガ 

を教えている。

それは決して、家族や仕事を捨てて、洞窟や森の隠者の生活を

勧めているのではなく、エゴ意識、自分がしている という

意識を犠牲に神に捧げ、すべての行為は神のために、あるいは、

神自身が 行っているのだという

意識で行うことを指しているのだ。

だから、誰でも今から、この場所で、実践できるヨガでもある。

何を捨てるのか?

小さな自分、エゴ意識を行為の主体者とするのではなく、それを捨てて、

大きな自我、大我、つまり、神性に帰結して、行為する心持を抱け

ということなのだろう。

 


 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ギータの中のヨガ② Saankhya... | トップ | ギータの中のヨガ④ Dhyana Y... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

自然治癒力とヴェーダ哲学の関係」カテゴリの最新記事