自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

息子へのセラピー体験

2012年09月15日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

息子の身体を通して、実証例

 

今朝 クライアントKさんとの会話での、          

  9月15日(土曜日) 2012           

話題・・・

それは、そのかたが紹介してくださったAさんが 

筆者のセラピストとしてふさわしくない言動によって 

何らかの不信を Aさんに与えてしまったらしいということ・・・

それは、誤解です~というのは簡単だが、その誤解がどうして

生まれたか、考えてみることにした。

 

帰納的 と 演繹的 という二つの言葉が浮かんでいる。

 

演繹的というのは、前提があって、三段論法式に、結論を導き出す方法。

帰納的は、ある命題の同じ結論をもつ事例を集めて、命題が正しい事

を導きだす方法。 

自分の話し方や結論の持って行き方は

一方的に想われても致し方ないが、後者の帰納的な方法によるものらしい。 

例えば、アートマ という 私たちの心の中にある、本質的エネルギーの

捉え方がその例かもしれない。

すべての人の中に

美しい本質があること、

それが実存していること、

を、直観で感じたのは、中学生の時だった。

其の頃の日記にも こう したためられている。

1017日   

私、人生って、物語だなと最近思うようになりました。 

それから生きているって、そんなに価値あるものかしら?

誰だって口をそろえて、そりゃあ、高い価値のあるものよ 

というでしょう。

でも、Anne注:村岡花子翻訳。モンゴメリー作”赤毛のアン”の主人公]

が言っていたように 常識でそういうことは

わかっていても、それと違う感情が、言葉で言い表せない感情が

入ってくるのです。

人生って物語、ほんとうにそう思う。 

一人ひとりが主人公で。 私もAnneのような主人公になりたい

。。。。。略。。。。

つまり、私は ある名もない一冊の本の主人公。 

わかっていることは ただ、”**田 ** という、

名前のついた主人公の本。


116 

この世はうつくしいものであるとある人はいう。 

この世はどこを向いても汚くよごれているのだという人もいる。

それはなぜか? なぜならば、一言である。 

人間らしい醜いが存在するからだ。

もしもこの世が美しいものであったら、人々は平和に楽しく、

明るく、暮らせるだろう。 

でも、人間には、悪がかりではない。

神が与えてくださった美しい心があるのだ。 

それはどんな罪人でも持っている。 だけど、埋もれてしまっただけ。

ほんのうすい、黒い砂に・・・ (以上 14歳の時の日記から)

 

そう心深くに、美しい存在を認め、自分の心にもそれが

あるのだと、気が付いてからも、その気づきが実際 

現実の中で 応用できるようになるまでには、

揺れる心との長い紆余曲折の道のりがあった。

 

さらに、その間、自分自身、多くの病を患った。

アトピー湿疹、弁膜症、遊走腎、余命6年と言われた

血液癌などなど。

数十年の歳月をかけて、 中学生に読んだ、輝く赤毛のアンに

憧れて、すべての人の中にある本質とは何かの実証を探してきた。

 

特に、幼い息子とインドでの二人の生活を余儀なくされたとき、

息子が 筆者の自然治癒力セラピーを 心底、信じてくれ、

病院へ と支度をしようとした私を、”ママが今までのように

治してくれると信じている” と 言われ、渾身の力でセラピー

を施術するときもあった。

抵抗力の少ない幼い身体の中からその力を発現するのを見てきた。

風邪などはもちろん、熱病やコレラも、息子の たっての願いで 

母親のセラピーを施すことで、癒された。

こうして、15年に近い間、私も息子も、インドで一度も医療関係機関

に世話にならなかったことが その確信を深めてきた。

本題に戻る。

これが、いわゆる 私にとっての帰納的結論である。

アートマ、大生命の存在、人間の本然 への確信だ。

 

自然治癒力はさておいて、アートマに関して言えば、

悪人はいない~ということは、どういうことか?

信頼できない とはどういうことなのだろうか?

誰にでも 心の中核にアートマ(純粋なその人の真実の存在)がある。

だとしたら、

他者の批判は、簡単にはできないということだ。

自殺や、人殺し、当て逃げなどの、過失致死などの場合もそうか? 

私は そうだと思う。 

加害者も ある意味で 犠牲者とはいえないだろうか?

育ってきた家庭の、社会の、教育の、薬害(精神病の場合など)の

被害者だとはいえないだろうか?

ただし、加害者の黒い砂芥(すなあくた)を除いた純粋な良心 

が回帰するまでは、この世では罪人としてそれなりの、法的裁判で

罪の償いをしなければならないだろう。

それでは、罪のない、犠牲者はどうか?  

 

 

犠牲者は罪がない、というのは常識だ。

アートマという観念の世界からは、実は犠牲者も加害者も マーヤー劇

(肉体的現象世界という芝居のステージの上で繰り広げられる、情景)

に出てくる、役者 にすぎない。

役者を降りれば、敵味方の演技を終えて、一緒に食事をし、共に演技の

反省をする良き友人同士かもしれない。

罪 という言葉は、そういう意味で現世的な意味合いを持つ。

この世の人間は誰をも 裁けないし、正しい裁きは全能の叡智を持つ人

意外は難しいだろう。

裁きとは ある意味で、因果応報の法則の中に 出て来るものかもしれない。

 

それは、自業自得 ともいわれ、永遠に変わらない、数式と同じ

行為 と 反行為の 法則だ。

必ず、自分が蒔いた種を かりとるのが 因果法則である。 

自業自得 の法則だ。

人の種は人が刈り取る。

人の心に 最善な美しい愛の心が存在している。

それは、私たちの心の反映として、完全な機能を

持っている肉体として、反映されるというのが、自然治癒力の

理論でもある。

この理論を、帰納的に 証明できるのなら、

多くの事実例が必要となる。

そして、その確率が100%でなければ証明できないとしたら

少なくても、筆者のかかわった人に関しては、筆者の場合も

含めて、かなりの高い確率でこのことは証明できそうな

気がする。

 

 

 明日に続く・・・・・

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