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キリストとブッダ~悪魔の誘惑 2014・3・15
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さて、先回のブログの続きとなるが、チベット”死者の書” は、
バルド ソドル と呼ばれ、千年以上も前から伝えられてきた
密教の聖典だ。
臨終から再誕生していく死後49日間の間(バルド)において、
死者の魂への導きが曼荼羅(まんだら)の絵とともに
解き明かされている。
死後49日間、肉体を離れた魂が 生涯の目的でもあった、
”悟りのへ道”からそれないための導きの書ともいえるだろう。
ヨガ(神人統一)の道が説かれているのだが、御彼岸にちなんで、
この書が 仏様の悟りとどういう関係があるか添えさせて
いただきたい。
仏様は6年間苦行の末、35歳で苦行で悟りを見出せないと知り、
村娘スジャータの”粥”を食して、断食を解く。
そして、菩提樹の下で瞑想を初める。
その49日間、ゴータマ・シッタルダは、魂の旅をするのだ。
様々な 夢うつつにも似た幻想も広がったことだろう。
悪魔のような狂気にも似た霊が現れては消え、誘惑しては失せ、
最後の悟りのための段階、壮大な意識の空間に苦行層ゴータマ・
シッタルダの魂は投げ出されたはずだ。
それはちょうど、イエスキリストが荒野で祈った時の体験に
似ているかもしれない。(*1)
悪魔が現れて“お前をこの世の王者にしよう”と誘惑するその体験だ。
聖書から引用すると、
”悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数が
つきると、空腹になられた。
そこで悪魔が言った、’もしあなたが神の子であるなら、この石に、
パンになれと命じてごらんなさい’。イエスは答えて言われた、
’人はパンだけで生きるものではない’と書いてある’。
それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界の
すべての国々を見せて言った、
’これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。
それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげて
よいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、
これを全部あなたのものにしてあげましょう’。
イエスは答えて言われた、
’主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ~と書いてある’。
それから悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、宮の頂上に
立たせて言った、
’もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりて
ごらんなさい。
’神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう’
とあり、また、
’あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを
手でささえるであろう』とも書いてあります’”。 (*2)
“悪魔よ、去れ”と、一喝したイエスの祈り。
王にしようと悪魔はささやき、条件として、悪魔の言葉に、従うよう
イエスを誘惑する悪魔に対してのイエスの命令だった。
一方、お釈迦様の前に試された、誘惑とは、どのようなもので
あったのか?
仏様は49日の間、黙想され 悪魔の誘惑を退けながら、瞑想を続けた
という。
49日後、12月8日未明に悟りを得、菩薩の身(修行者)からブッダと
尊称される覚醒者になった。
余談だが、ブッダが悟ったこの村(ガヤー)はそれを由来として、
ブッダガヤと呼ばれ、仏教の聖地になった。
そして、このバドルの書こそ、 その魂の放浪の記録、解脱の道を
得るための ブッダの”魂の彷徨記録”であったという説がある。
肉体から遊離した魂人間界はもとより、畜生界やそれ以下の地獄界
に落とされないよう、バドル・ソドル は 死者(求道者)の魂に
導きを与える。
死者の書 と訳されているが、その意味からは悟りの為の書
とも言えそうだ。
私たちは一度死ななければならない~のかもしれない新しく生まれ
変わるために。それは肉体的な死を意味するのではなく、自分の意識を
”どちらに向けるか”と決断したとき、一方の自分に決別を告げると
いうことでもあるだろう。
肉から魂へ、物から魂へ、幻影から実存へ小我から大我へ自分だけ
の喜びから他者と分かち合う喜びへ・・・
悟りの目を開くときに、一度 死の門 を通るといわれている。
彼岸 というのは どこにあるのだろう?あの世を指しているの
が一般的だが、仏教的に言えば、”悟りの世界”を意味しているのだ。
あの世に行かれた祖先の霊が、必ずしも悟りの境地に行くわけ
ではないだろう。
たとえ、あの世に行っても、人は悟るまで生まれ変わると言われる。
ほんとうの彼岸にたどり着くまで、人は生まれ変わって、修行する。
その修行こそ、チベット密教的に言えば、自分の”reality
(実相=実存の姿)”を知るということだ。
執着や煩悩から離れて、“自由な心”= “無碍”(むげ)になること、
それが悟りの一つの定義だが、決して難しいことではなく、
”本来の私”を想いだすことなのだ。
私たちの体の細胞が 一年前と今ではすべて新しく再生されたもの
であるのと同様、私たちの心も 毎夜寝て朝目覚めるというサイクル
を繰り返しながら 日々生まれ変わっている。
(*1) 洗礼者ヨハネから洗礼を受けたイエスは、
霊によって荒野に送り出され、そこに40日間とどまって、
悪魔の誘惑を受ける。
マルコによる福音書(1;12,13)
マタイによる福音書(4:1・11)
ルカによる福音書(4;1・13)に記述がある。
(*2)
出典/口語訳聖書 Public Domain
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