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相手の心のパンドラの箱をあけたとき・・
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自分の言った”つもり”の通りに、相手が
自分の言葉を、受け取るとは限らない。
たまに、反対の意味合いで受け取られる
ことがある。
言葉だけでなく相手によかれと、為した行為
が 侮辱されたとか、尊厳を傷つけられた
とか、試されたとか、不当な評価で、怒り
とともに帰ってくることもある。
話の内容が伝わるかどうかは 受け手側の
心情の状態に左右されるから・・ということだろう。
相手の心持が良く理解できれば、不当な怒りを
招く言葉も出ないはずだと、人は言う。
が、その ”相手の心持ち” を理解することは
決して簡単ではない。
心というのは、 自分自身の心でさえも、
操縦が聞かないほど、時に、気難しいものだから・・
心 の持つ感性は、千差万別だ。
なぜなら、この人生以外の、過去生の、体験
から、特有の感性は、”出来上がってしまって
いる”ものだから。
それぞれ、別々の人生を、今も昔も歩んできて
いる以上、
”感性の一致”などあり得ない と私は思っている。
弁慶の泣き所 といわれる部分が、誰の
心にも存在している。
古傷のようなもので、それに、少しでも
当たると、痛みを覚える”記憶”につながる。
誰もが、その部位は違うから、それに当たらない
よう、配慮しても、不完全だ。
それに触れてしまえば、相手の心は、閉ざされる
とわかっていても、親しくなればなるほど、
その、アキレス腱に 触る確率が増える。
誰もが、そこに触れられると、無意識に、
傷ついた箇所に当たらないよう、防御反応が
働いて、距離を置かれてしまう。
その ”トラウマの古傷”の主成分が、
サンスクリット語で、”アハンカーラ”と
言われる、”エゴ意識”と、
”サンスカーラ”といわれる、独自の感性だ。
自分の感性«サンスカーラ≫を頼りにして、
良かれと思い接していると、冒頭に書いた
相手からの“思いがけない反抗”で、相手の心の、
”パンドラの箱”を、開けてしまったことに
その時、気が付く。
これまで、幾度となく、そうした、体験を
重ねてきた。
そのたびに、私は、なまじっかの親切心や
助言を言ったりするよりは、心を閉じていた
ほうが分別的と思い、貝殻のようになる。
が、反対に、いまだに、自分を信頼してくれて
いる人たちも存在している。
が、いつ、どんなきっかけで、こうした事態が
起こるのか?と そのたびごとに、人の心の
危うさをいぶかしく思い、その覚悟も必要だと
感じる。
さらに、これは、私(過去の)の行為そのもの
だと反省のよすがにしている。
自分の”古傷のトラウマ”に触られたと、
機嫌を損じ、同様の態度や言動を他人にぶつけた
ことが、これまで、あったに違いない。
こうして、他人からそうされるのは、合わせ鏡
なのだろうと、想うようになってきた。
その時、相手は善意で行動し、私に接していた。
が、相手の善意を信ぜず、理解しない、”私” が
きっと、相手に対してとった、”言動”で
そのときの、相手は苦汁を飲んだに違いない。
そして、その痛みを、今、自分がこうして
味わっているのだろう・・・
人生とは、結局、死ぬ時、天秤にかければ、
自分がしたことと、相手にされたこと、
幸せな時期と、不幸な時期、
愛と憎しみ、
喜びと悲しみ、
などなど、
すべて、二次元的な価値は、±【プラマイ】0(ゼロ)
になるように、錘(おもり)が用意されて
いるのだと、あらためて、想う。
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