おおらかな、罪や悪への観方 2017.3.21
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以下はニール・ドナルド氏が”神”(注;ニール氏が文中に
メッセージを与えた対象をこう呼んでいる。
ニール氏自身、それは自分の’無意識の領分’から発せられた、自分への
言葉かもしれないという疑惑を時には持つ)から受けたメッセージである。
”あなたは、過去をもとに自分の価値を決めるが、私(神)は未来をもとに
あなたの価値を決める”
”いつまでこの不幸が続くのだろう~"
落ち込みながら人はなかなか、明るい未来を心に描けない。
が、神から見れば、明るい未来しか’無い’かのようだ。
”未来にこそ、真実がある。過去にはない。 これまでしたことは、
これからすることに比べれば、重要ではない。
これまで犯してきた過ちはこれから創造するものに比べれば何の意味もない。”
創造?
これから創造するもの?
想像できないけど、きっとあると思うと悪い気はしない。
いままで生きてきた中で生産性のある行動を、仕事をなしてきたのだろう?
と振り返る。
職場で、家庭で、出産や育児、趣味や奉仕活動で、・・・ 振り返れば、
親から守護を受けるだけの、子供時代にさかのぼれば、それから、成人し、
ささやかでも 何らかの形で人に与えることに従事してきたことは
探し出せるだろう。
悪いことは覚えていても、今築き上げた現在までの 自分なりの成果を
(それが評価されているかいないかは別として) 忘れがちな人も多いようだ。
私自身でいえば、理想を追うばかりに、現実とのギャップに落ち込むことの
多い人生であったような気がする。
そうして、罪ある生き方をしてきた、人をどれだけ、苦しめたことがあった
のだろうとか反省すると、因果応報、何か 罰せられる出来事が起きても
当然のような気がしていたものだ。
その究極が、地獄 の肯定だろう。
が、地獄は存在しない。罰せられるという意識は人が自分でそう判断して
思い込むことらしい。
”神”は続ける:
”すべての過ちを赦そう。”
”あなたの間違った情熱も赦そう。すべて赦そう。間違った意見、見当
違いの理解、有害な行動、自分勝手な決定、すべて赦そう”
”ほかの人は赦してくれなくても、私は許す。”
”ほかの人が罪悪感から開放してくれなくても、私は開放する。”
罪人は 罪咎がある人だが、その罪は、人が決めたルールにのっとっている。
そして、人が裁き、そう決定付けられる。
一方、神は、神の前では罪人は存在しないという。
そういわれれば、実際、歴史的にみても、罪人が、聖人になった例がある。
たとえば、パールミキ、マハバラ―タの編纂者といわれるが、彼は森で人を襲う
盗賊だった。
が、ある縁(えにし)により、インド国民の小学生も知る、ラマヤーナと並ぶ、
マハバラ‐タを編纂し、聖者となるのである。
神は言う・自分の実存する聖なる意識に気が付いた時、そのとき、瞬きほどの
瞬間に聖人になる~と。
なぜなら、
”ほんとうのところ、罪人などいない。
誰も罪を犯すことなどできない。
まして、私(神)に対してありえない。
だから、(私は)貴方を赦すという。
本当はあなたを赦すのではない。
ただ、あなた(罪の意識、自分の本質を隠している転倒妄想から)
解放するのだ。
赦さなければならないことは何もない。
あなたを解放することはできる。 だから、今、解放しよう。”
このことは とても、意味深いように思う。
なぜなら、私たちは神を傷つけることができないからだ。
否、神が どんな状況下でも、”傷つく”ということはあり得ないからだ。
”傷つけられた”とか”怒った”という感情は神にはない。
つまり、神は傷ついたり、破壊されることはないということだ。
だから、
”どんなことがあっても 私は傷つかない”と 重ねて神はいう。
そして、傷つきえないものは人を傷つけることもできない~という。
”私は無礼だ、失敬だと機嫌を損ねたり、傷ついたり、損なわれたり
しない。
そんなことはあり得ない。
あなたも同じだ。ほかのすべての人もそうだ。
ただ、あなた方はみな、自分が傷つけられ被害を受けたと思うから、
復讐しないではいられなくなる。
苦痛を経験するから、お返しとして人に苦痛を与えずにいられなくなる。”
苦痛を与えるだけではない。
相手は間違っていると”ジャッジ(判定)する”のが人の常だ。
神は言う;
”あなたが、自分の言葉を守れば、多少は筋が通るかもしれない。
あなた自身、何が正しいとか間違っているとか、考え方を始終変えている。
個人でも社会でも同じことだ。”
変わる。変化する。 人の心も世間の考えも。
何が正しく何が間違いか、だれも真剣に検討できない。
法律でさえ、変わる。 憲法も今変わろうとしている。
世の中の流れはそんなものだ。
神の言葉は、ある意味、”いい”加減だ。 ”いい”加減というのは、”良い”、
加減 である。
加えたり減らしたり、程よく、だれもが抵抗しないで耳を傾けるだけの
融通性がある。
頑固にこれが真実だとか、これこそ、真理だとか、こう生きるべきだ
とかは主張はない。
むしろ、一貫性がないように聞こえるかもしれない。
何をやってもよい、結局、あなたは私の家に帰ってくるのだから~と
私たちに、寛容性ある赦しに満ちた言葉を 神はここで投げかける。
神の掟(おきて)とか、神から罰せられるとか、こうせよ、ああせよとか、
これのみが真実であるとか、戒律とか、すべて人間が組織の中で、収める
ために、社会性を重んじるがゆえに決めたものなのかもしれない。
結局、私たちは本当のところ、本当に最後まで残る、あるべき姿 から
逃げるわけができない。
なぜって、今、私たちが奔放に自由に、夢中になっていることも、いつかは
消える泡のようなものだと、いうことなのだから。
貴方は私(神)で、私(神)はあなた、私たちは一体であり、分かれて
いるように見える指のようですが、手のひらで全部つながっているのです~
と言いながら、いつかそれに気づくのが あなた自身です~という、
神の行間の無言のつぶやきが聞こえるような気がする。
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