お彼岸に寄せて 2014・3・13
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太陽が真東から昇り、真西に沈むことから、
西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土
(西方浄土)に思いをはせたのが
彼岸の始まりだという。
西方浄土は、仏の住む世界。
仏様は日本語では2種類の意味で使われていて
亡くなった人が49日を過ぎると 仏(ほとけ)に
なったといわれ
本来の仏教の開祖様の仏様と区別される。
もともと、これは悟った者の意味であり
仏様は ゴ~タマシッタルダ というお名前である。
ゴ~タマ とは、 ゴ~ + アートマ であり、
印度では牛は神の使いとされているところから
神のアートマ[神性]を持った人。
というアートマ(大我)に目覚めた人という意味で
つけられている。
以前関西の癒しの森で チベットボン教を土台にした
瞑想のコースを受け持たせていただいたことがある。
紀元前5世紀にすでに仏教の教えが発祥していて、
小乗と大乗仏教二派がアジアの国々に伝わっていった。
チベットでは、当時ボン教という高邁な理念をもった
宗教があり、その影響を受けながらチベット独特の
チベット密教を発達させていったとみられている。
仏教発祥の地、印度において、仏教はヒンズー教に
呑まれてしまったとみる観方がある。
ヒンズー教のヴィシュヌ神(天地維持の神)は天地創造以来
様々な形の神に姿を変えて生まれ変わっているとされる。
その一つの姿が ブッダであるとされている。
つまり、仏陀 はインド人にとっては”天地維持の神様”の
一つの姿を変えた形の顕現ということになる。
学者によっては 仏教でいわれるところの
ブッダと ヒンズー教で考えるブッダとは異なる
というが、一般的にブッダといえば、仏教の開祖のことに
なっているから、このあたりで混同されているのかもしれない。
筆者が 南インドの厳格なヒンズー教寺に詣でたとき、
外国人は異教徒だからシャットアウトだと門前払いを
食った。
そこで “わたしは日本人である”とパスポートを見せたところ
“仏教徒ならば、仏教はヒンズー教徒の一種であるから
入ってもよろしい“と 言われて、許可がおりた思い出がある。
他宗教に寛容なヒンズー教徒であるが、仏教に関しては
特にヒンズー教も仏教も同根と思っている人が多いことに
気がついた。
それが 仏教がインドで広まらないとされる要因の一つ
かもしれない。
”空観”のとらえ方、それは すでに紀元前5千年前に
記されたとも言われる、ベーダ哲学の教典に、記されている。
その空観は、そのまま バラモン教に引き継がれ、
仏陀が仏教を立ち上げる前に修得した(学問として)
知識で会ったことだろう。
その知識を 生きた体験の中に生かす、悟り を開いた
ことで、多くの人達の間に広まった。
日本では、それを解釈する人によって、様々な意味に捉えられる
曖昧な 空(くう)の概念であるが、ヴェーダでもチベット密教でも共通
して明らかな点は見つかる。
たとえば、チベットの聖典 バルド・ソドル の中で次のような
フレーズがある。
“今、汝は真なる実存(reality)の クリアーライト(clear light)
からの発光を体験している。
それを認識せよ。
なぜならそれは、本性は 空(くう)本来であり、
何らかの特徴や色付けされない汝の現在の知性は
実に実存(reality)、完全なる善であるのだ。“
としたうえで、人が間違いやすい、空(くう)= 何もない、空虚
といった観念を打ち消すように 次のように説明が加えられる。
“何も無いという空としてではなく、妨害されず、輝き、
至福に満ちた 知性そのものとしてみなされる空(くう)である彼自身
は真の意識を持ち、完全なるブッダとしてみなされる。“
空とは、至福に満ちて、執着などの妨害も存在せずに、
真の意識(覚醒)をもって、その時その人は ブッダ(覚者)となっている
ということだ。
チベット死者の書 という題で、バドルソドルを翻訳された
おおえまさのり氏も、この空の概念は、日本人の仏教徒が持っているそれ
とは異なるようだと次のように批評している。*1
“空の認識は、私たち日本の仏教徒がいだいてきた
無に帰着するというそれとは まったく異なっているように思われる。
チベット密教では まぶしく輝くクリアーライト(clear light)
であるとしている。
空の、こうした無常の光悦と至福に満たされた状態を 綿shチア地は
他に見出すことはできないだろう。“
としたうえで
“ここには私自身であることの 空の性 がなんと鮮やかに
示されていることだろう。“
“わたし達の魂が確かにまぶしく輝く、神格それ自身である。
神格は私たちの魂であるということが実現されるのだ。“
とも表現して、日本の仏教の中で漠然ととらえられがちな
空という概念が 実は自分自身の中にある神格そのものである
という理解を示している。
いかなる宗教でも癒しでも医術でも、本当の理(ことわり)を
知っている その道の大覚者(第一人者)ならば、共通して
“知って”いる“叡智”の一つでもあると思う。
続く~
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