自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

時間のない世界と異次元の私

2018年02月18日 | 健全生活のために”死”の常識を反転

 

死んだあとの第三の段階に知る、究極的実存の自分とは?

************************************2018・2.18

実母の葬式を終えて、母の魂の行方と意識の状態を

かんがえている間に、ニール氏の原著を読んだ。

その本によれば、死んだあと、三段階の過程を人は経るという。

 

一段階目は、肉体の衣を脱ぎ捨てて、自分が死んだという

認識を持った段階。


二段階目は、その人が生前、どのような信念で生きてきたか

によって、その信念通りの環境が死後の世界として表れるステージ。

たとえば、厳格なキリスト教徒は、死後、審判の日までは眠って

いると信じているから、死後、自分が死んだと気が付いても、

そのまま深い眠りの状態で過ごすという。


地獄に落ちるほど、生前、悪い業を重ねてきたと恐れていた善人は、

地獄の状況が待ち受けているだろう。

死んだら、愛していた家族と再会するのだと楽しみにしていた

人の前には、一足先に霊界に旅だった昔の家族が出迎えて、楽しい

再会を果たすだろう・・・という具合だ。


第三段階には何があるのか?

それは“ultimate reality “, 究極の実存 とも訳せる、その実態

を体験するステージが待っているという。


究極の実存 というのは、たとえば、地獄の世界で苦しんでいる

自分を認識すると同時に、もう一人の究極の自分が‘

”これは私の心が造りだしている世界だ”と 自覚したとき、

自然と地獄にいてそれを超越できる実存を体験するという。


地獄に居ながらにして、本当の自部の意識が、次元を超えて

たどりつくステージ”といえるだろう。

つまり、私は、本当は誰なのか?~という質問に、一時的な

感情でもなく、マインド(心)ではなく、魂(ソウル)である”

ストンと悟る、その瞬間に、このステージにたつ。


この究極の実存の段階のことを考えていたら、このブログの

冒頭のような’前置きの言葉’が思い浮かんだ。


 実存の段階には時間が存在しない。

なぜなら、般若心経でとくところの、不生不滅 の 空 

のポイントに存在していることが、’実存の実態’でもあるからだ。


在ってあるべき姿、未来永劫、いつ生まれたとか、いつ消える

という時間的限界があったり、有限の存在でないという 

明白な自覚を覚えることだろう。


この空 の自分を観る目というのは、死んでから 理解する

人もいれば 今この娑婆世界に生きていながら、持っている

賢人たちも多々いる。

ニール氏の本では以下のように、その目を 次のように表現

している。

“Even those who imagine they are  going to ‘hell’ and then send 

themselves there do not suffer. 

They simply observe themselves  having this experience, but without 

emotional connection to it.”

~地獄に行くと想像した者たちは、そこに自らを送り込むが、

決して苦しんではいない。

自分が地獄の体験をしていることを観察しているだけで、

感情的なつながりはそこにはない。


“Once the soul has remembered that suffering is not a reality, but, merely 

an experience created in the human  mind, it will have achieved what it 

sought to achieve with the creation of its own hell, and the experience 

will thereafter be meaningless.”

~一度、魂が 苦しみは実存するものではないということを

思い出した時、その苦しみは人間の心が単に、生み出して

体験していたということを知るとき、魂は、自ら創造した

地獄の体験を獲得はするだろうが、その体験は無意味であるという

こともわかるだろう。

 

こうした真に客観的な冷ややかな自分を観る目は、

ある意味、’空’的な 本来の’自分の目’と言ってもよいのだと思う。 

そして、それは、確かに、次元が異なるところから、

この三次元世界、もしくは、霊界における次元の境遇を

見ている目でもある。

 

あの人が!? と思わせる その人の多様性ある行動や意見、

私自身が自分を観たときにどうしても相いれない不整合的

自分の言動、 そうした矛盾性ある人間の様々な側面を

考えたとき、“私たちは違う異なる次元を今、同時に、

生きている”とも表現できるのはないか~・・・

と感じる。


そして、そう感じながら、つらつら思うには、それは 

同時進行で、目に見える今のこの場の出来事以外に、

目に見えないところ、あるいは、異次元の流れの中で、

自分が複数存在していても、おかしくはない~という

漠然としたアイデアに行き当たった。

 

幸い、ニール氏の本の中で、同様のことが以下のような

言葉で書かれているのを見つけた。

“All things (past, present, and in future) happen sequentially and 

simultaneously.”

~すべての事柄、(過去、現在、未来)で起きる事柄は、

順序だてながら、しかも同時に起きているのだ。

さらに、

You experience a three-dimensional world, but you do not live in one”

~あなたは、三つの次元の世界を今、体験しているが、

1つの姿として生きているのではない。


“It means that Ultimate Reality is far more complex than you may ever 

have imagined. 

It means there is more going on here than meets the eyes.

 I tell you that All Possibilities exist at all times. 

You are choosing the possibility that you wish now to experience from

 a multidimensional field of infinite possibilities.”

~それは、あなたが想像するより、はるかに、究極的実存の

世界は、複雑だということだ。

それは、目で見ていること以上にもっと多くの事が

ここでは繰り広げられているということでもある。 


私は、すべての可能性 は、常に、いつも、存在している

と言いたい。

あなた自身が、無限の可能性のある、多次元の事象の中

から、どの体験を選びたいかと決めて選び出したことは、

自ら、体験したいと願っているわけだ。

 

私の亡くなった母は、違う次元の姿で今も、私の傍らに

いるように感じる。

今ブログを書いて、原稿をパソコンで打っていても、

私の違う次元に漂う実存的意識は母のそばにある。


楽しそうに冗談を交えながら、今日あった興味深い出来事を

話して母に聞かせているのだ。 

かと思うと、違うところで、現実的な明日の予定を反芻して、

そのための準備の段取りの予定を、考えている。

 

人間というのは、しょせん、そのように、奥が深く、心の領域は、

他者が想像できないほど、多岐多様に様々に広がっている

ものだとニール氏の本の中でも、述べられている

 

 

* 青線挿入フレーズ(日本語訳、須田) 出所~

”Home With God"~

In A Life That Never Ends      

 by Neale Donald Walshch

Atria books ,2006 

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 母の49日法要~死後の世界の... | トップ | 自然治癒力セラピーを考えた... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

健全生活のために”死”の常識を反転」カテゴリの最新記事