”無条件の愛”の存在:生きている間は気が付かなかった・・
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タイトルは、8月30日の、ブログの中の言葉。
’生まれる前の魂が、これまでの、カルマ総得点に
より、次の生では、穏やかな死に方には点数が足らず、
自殺を選択した。
彼は、次の生では、カミソリでバスタブのぬるま湯で
動脈を自ら切る~設定を、すでに、おぎゃーと産声を
上げる前から、プログラミングしていた。’
というお話だった。
以前、昔の話だが、自殺者は、往生(おうじょう)
できない、
あの世でも、苦しむ という話を 知り合いのお坊様
から聞いていた。
私の知り合いで、数人のそうした人たちの顔が今でも
脳裏に思い浮かべられる。
大学時代、”どうして人は生きていると思う?”と、私に
笑顔で聞いてきた友人は、翌月、命を絶った。
結婚前の会社務め時代、職場のエンジニアの奥様が、
東横線に身を投じたと聞き、その通夜に伺い、友人を
慰めた。
しかし、彼もまた、数日後、線路に奥さんの跡を
おうかのように、飛び込んだ。
親友のお兄様もそう・・だった。
自殺者は救われない・・あの世で苦しんでいる・・
と長年、私は、そう思っていた。
が、ドチュー氏の逸話【8/30日記事】を読んで、
そして、飯田史彦氏(*1)の書籍を読んで、私は、
考えが変わった。
死んだというのは、どんな手段にせよ、地球服を脱いで、
魂態で、異次元に移行することである。
そして、異次元に移行するとき、無条件の愛 という言葉
では表せない、あたたかな、和(やわら)かな、包んで
くれる、空気に包まれる~と、誰もが(臨死体験者)が
述べている。
自殺者は例外かと思ったら、そうではなかった。
飯田史彦氏の本(*1)に、実体験が、詳しく、述べられて
いるが、自殺した霊と、コンタクトが取れてのやり取りが
ある。
自殺者が自ら、飯田氏に送ってきたメッセージは以下の
ようであった。
。。。。。。。
① 真っ暗闇の中で、自分が犯してしまった罪をひたすらに
反省している。
② そこは、非常に寂しいところだが、‘愛に満ちている’
③ 愛’という言葉が不適切なら、‘感謝の念’と‘確信’がある。
絶望のなどん底にいても、‘確かなる希望’をあたえてくれる
‘何か’が存在し それを‘愛’と感じる。
④ 真っ暗闇の中に 贖罪のために、身を落として
(両親を悲しませるという最大の罪の一つを犯した
ことをここでは、さしている)猛反省して、
‘自分は誰かに愛されている’という確信ができた
⑤ 誰から?愛されているかといえば、‘すべて’に
愛されている。
自分自身を含んだあらゆる存在が、自分を愛して
くれている
⑥ このことは、そちら(肉体の世界)で生きている間は
理解できなかった。
体を離れてから、ようやく、‘すべて’を理解できた・・・、
まるで、ただ、’忘れてしまっていたことを思い出した’
ように。
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この時の記事は、ブログ2017年9月18日と23日に書いて
いる。
興味あるかたは、是非、ご覧いただきたい。
当時、私は、飯田氏のこの体験を読んで、とてもホットした。
それは、自殺霊が、
あの世では
”絶望のなどん底にいても、‘確かなる希望’をあたえてくれる
‘何か’が存在し それを‘愛’と感じる。”
と、語った言葉。
それを、”愛”と表現していた。
さらに、”自分自身を含んだあらゆる存在が、自分を愛して
くれている”という言葉。
本当は、常に、娑婆世界にいても、肉体服を着ていても、
着ていなくても、”愛”に取り囲まれていたのだが、肉体服を
着ていたときは、それに、気が付かなかっただけだ・・
と、この霊は言う。
”忘れてしまっていたことを思い出した’ように”
あの世の次元に移行して、初めて、そのことがわかった
という。
今の私たちが、この地球に、三次元世界に感覚をもって
生きている限り、それを”思い出すこと”は難しいのかも
しれない。
が、本当は、今も、意識次元を変えれば、そのリアリティー
に気が付くことは、可能だと思う。
私たちのリアリティーは、三次元の私?
死んだら土にかえる骨の中に、私はいない。
この世とあの世は、とにかく、すべてと言っていいほど、
多くの物の価値感、基準、考え方、とらえかたが、
真逆なことが多いのだから。。。苦しみと執着が生まれる。
飛翔した、意識へと、現在意識の舵取りを、していくことが、
大いなる修行の一つ/この世に生まれた目的の一つ、
なのかもしれない―
*1) ”生きがいの創造”Ⅱ PHP研究所 2005年
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