無色聲香味蝕法 無眼界 乃至 無意識界 無無明 亦
無無明尽 乃至 無老死 亦 無老死尽
むしきしょうこうみそくほう むげんかい ないし
むいしきかい むむみょう やく むむみょうじん
*************2013年11月12日
前置き)
私たちは本来、健康です。
野生動物が、怪我や不調でも、自然治癒力と智慧で自ら
癒せるように、私たちも、備わった治癒力本能を、
もっと生かすことができるはずです。
本来の自分に”回帰”するために、生命力を発揮できる
ように、エディ夫人の言葉と、般若心経の接点を
考えたいと思います
はたして、私たちの感覚は、正確に、情報を伝えて
いるのだろうか?
その情報は、感覚器官(五感)を通して、脳という
プロセッサーでかみ砕かれたものだ。
そうして得られた情報を私たちの’意識’は、”本物”、
”事実”として受け入れる。
その意識が”考え”て、その情報を基に、行動を決める。
しかし、もし、その得た”情報認識”が実は真実で
ないとしたら?
真実でない、というのは、”本当”で”事実”と感じても、
実際のところ、本当でも事実でも無い、一種の錯覚
だとしたら?
エディ夫人が”病”が在る、というのは、錯覚だと
いうのも、この情報の虚妄から結論つけている。
”在る”というのは、厳密に言えば、”本当に有る”、
そして、”実在(実存)”ということ。
もし、”病が実存する”のなら、人類は、病を、永久に
根絶することは不可能だろうとも言う。
実存するものを消すことができないからだ。
それは、神という言葉を、人類の言語からなくすこと
ができないのにも似ている。
でも、病は確かに存在している。
闘病している人たちにとっては、病は現実に”在る”
のだ。
どうして、それを、“無い”とか、”錯覚だ”とかいう
言葉で片づけられるのだろう?と誰もが思う。
が、その病は良好に癒され、完治する場合もある。
だから、”病は、無い”ともいえる。
病の症状は、不快感をともなう。
が、この“不快”な、という感覚は、もしかしたら、
その症状からきているというより、根本は、その人の、
病への恐怖から来ているとしたら?
具体的に、高熱や、痛み、だるさや吐き気などは、
不快なこの”感覚”は、身体が病に陥る前兆なの
だろうか?
そういう場合もあるかもしれないが、健康な人に
とって、時には身体の自然治癒力が発動して、浄化作用や、
ヴィールスなどを滅する働きを 症状と感じる
場合も多々ある。
インドで16年生活していると、さまざまな修行者に
出会った。
中には、手術を余儀なくされたとき、麻酔を拒否して、
そのまま医師と時折、談笑しながら、手術を終えた
聖者を知っている。
私たちの感覚。
今この瞬間、地球が、とてつもないスピードで動いて
いることは、誰一人、実感としてつかめない。
私たちの五感機能は、それをとらえられない。
犬や猫の嗅覚でさえ、彼らのほうが、はるかに鋭い。
臭いをかぎ、私たちの想像を越えた、より多くの情報
を得ている。
嗅覚だけでなく、見る、聞く、という能力は、
野生動物たちのほうが、はるかに優れている。
でも、彼らに持ちえない、そして、私たちが、
日頃意識していない、素晴らしい”意識感覚”が、
誰にも備わっている。
その意識を、クリスチャンサイエンス創始者
エミール夫人は、
”キリスト意識”と呼ぶ。
キリスト意識は、他の言葉でいえば、人の本質の
神性意識といえるだろう。
その意識で物事をみれば、宇宙(私たちの心身を
含めた)の実相を知りえる。
その意識で”病”や”不完全な状態”を見たとき、
それらの原因は見いだせないということを、エディ夫人
は、言っている。
なぜなら、その意識で、病気を観たとき、病は無く、
不完全な状態が、その次元の意識の中には、映らない
からだ。
エディ夫人のいう、”病の原因を抹殺する”、という意味は、
”肉体意識”を超えた意識で、病の原因を見たときに、
それはすでに’無いものだ’と、理解できるという意味
だろう。
そのとき、すでに、”病自体が無い”から”病の原因も
ない”ということになる。
まとめると、これらのことを、エディ夫人は、
次のように、表現した。(*1)
”①”病の原因は神聖なる科学( ChristianScience ) に
おけるキリストによって,抹殺されなければならない。
もしそうでなければ,いわゆる,肉体的感覚
(physical sense)が勝利するだろう。” (*1)”
般若心経の、”無色聲香味蝕法 無眼界 乃至 無意識界
無無明 亦 無無明尽
乃至 無老死 亦 無老死尽 ”の境地に匹敵する。
つまり、無色聲香味蝕法”と、五感を"無い”と喝破したうえで、
無明(迷いや顛倒夢想など)は本来、無い(存在しない)
から無明を滅しようということも必要ないし、
老死は、本来、無い(存在しない)から、老死を滅しよう
とする意味もない”という
般若心経のこの意味と、エディ夫人の言葉は、同意だと思う。
”病自体は無いから、その原因を探っても、見当たらない”
というエディ夫人の考え方は、キリスト教も、仏教も、
宗教という枠に当てはまらない、真理のように思う。
(*1)"Christian Science " 創始者,マサチューセ
ッツ形而上学大学学長で,ボストン市所在第一
科学者キリスト協会名誉牧師の メリー・ベーカ
ー・エディ女史が残した,"Science and Health
with Key to the Scriptures", New York, in 2012
ッツ形而上学大学学長で,ボストン市所在第一
科学者キリスト協会名誉牧師の メリー・ベーカ
ー・エディ女史が残した,"Science and Health
with Key to the Scriptures", New York, in 2012
(邦題:” 科学と健康” より引用)
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