自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

超古代史に見る、七五三の祝

2015年11月15日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

 

 日本伝統的風習のルーツについて 2015・11・15

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今日は七五三。

お参りに行かれる方もいるかもしれない。

秀真伝(ほつまつたえ)の ”東西の名と煌虫去る

紋(あや)”には、現在でも祝われている、

さまざまな、節句にちなんだ祝いについて

述べられている。


重陽(ちょうよう)の節句というのは、1月1日、

3月3日、5月5日、7月7日、9月9日、など、

奇数月と日が重なる、めでたい日をさす

 

さて、七五三の祝の由来については、イザナギ・

イザナミの両神が、婚姻を済ませ、御子を御生みに

なり、天照大神(男神)の姉にあたる、和歌姫の

幼少時代にさかのぼる。


その箇所を引用すると:

 “それ和歌の本緣について述()べると、

古天両神の長女にます若姫の神は、三歳に

なる時、父母神の厄年にあたるなり。


故に三歳になる直前に、(いわ)(くす)(ふね)

に乗せられて、()てられ給う。“

 

ここでは、イザナギ・イザナミの尊のご長女で

ある、若姫は三歳の年に、ご両親の厄年にあたり、

厄除けのために、川に流されたとある。


そして、育ての親となる、金折命(かなさくの

みこと)に拾われる。

(これは儀式的意味もあり、実際、金折命は
自身の乳飲み子と死別したばかりで、妻が乳が
張り、乳母として和歌姫を育てる役を言い
つかったとする観方が有力である)


そのあたりの記述が以下にあある;

“金折命はこれを拾(ひろ)ったと云()って、

廣田(ひろた)に西(にし)殿(どの)を建()て、

其の妻の乳()をもって養育をなすなり。”


これは、現在の兵庫県西宮市にある 廣田神社

である。

”拾った”が、廣田に名前を変えたのだろう。

(現在では、古事記主体で神社が運営されているため 

御祭神が往々にして異なる。)


養父・金折命は姫を、可愛がり、成長するにつれ

アワの歌を教えたことが次の箇所に、記されている:


“初めにアワウワを教ゆる。手を打()ちて、気を

(ひら)き、眼を(ほそ)めて笑うなどなり。”


ここは、現代でも変わらない赤子をあやす言葉が

出てくる。

カイグリカイグリ、トットノメ・・アワウワアワワ・・・

などと手を打って、笑い顔であやしていたのだろう。


”手を打ちて、気を開き”というところは、興味深い。

拍手する意味合いの一つに、凛とした拍手の響き音は、
気を高め、順気を流れ指す、言霊の一種の役目を
もっていたことがわかる。


相撲でも、お祝いの席でも、参拝時でも、人は、こうして
礼拝時や、お祝いの”お手を拝借”の声に合わせて、
無意識に拍手をしている。

さて、姫が成長して三歳になった時の祝いが、

描かれている;


“三歳の誕生日には初めて食膳を供え、食を

進めて行儀を教ゆ。


三年の冬至(とをぢ)には髪(かみ)(をき)祝を

なす。“ とある。


昔の三歳は、数え年なので、現在の2歳だろう。
乳や離乳食を主体としていた食事から、膳の
盛り付けで、一人前の食事をいただき、
行儀作法も教えられ始めた。

そして、冬至に、髪の結い方も、赤子と区別
されるようになった。


ところで、1月1日に、正月になぜ、餅をつくのか? 

の記述も同紋に出ている。

“元旦には初日(はつひ)(もち)を搗()きて、

天地(あわ)の神(かみ)に供(そな)えて敬(うやま)い 

父母(ふぼ)(がみ)に礼(れい)をなすなり。”

と記されている。


祖先は、神代の昔から、元旦に餅をついて、

神に供え、父母に挨拶をして、新年を迎えていた。


3月3日の、女の子の節句になっている、ひな祭り

の由来しては、

 “三月三日には桃(もも)の花を供(そな)えて

(ひな)(かみ)を祭り”


一方、男の子の節句、五月五日に関しては、

菖蒲(しょうぶ)と粽(ちまき)を供(そな)える。”

と 現代でも変わらない風習が述べられ、供え物と

して菖蒲や粽(ちまき)が出てくる。

 

七夕として祝う、77日、これは中国からの逸話がもとになって

いると多くの人が考えているが、ホツマツタヱの

中には、日本の独自の祭りとしての記述が出ている。


“七月七日は木綿(ゆう)・麻(あさ)(たく)(はた)

を祭り”と記されている。


九月九日の節句は、現代では、ほぼ忘れられて

いるが、その日は、

“菊(きく)・栗(くり)を供え祭るなり。”と書かれている。

 

さて、話を元に戻して、七五三の、5歳の男子女子の

祝い方が、次に述べられている。

“五年の冬には、男は袴(はかま)()は被衣(かつぎ)

()る。”


五歳を機にして、男子女子とも、衣装が新たに 袴や

カツギといった、装束に変わることが書かれている。


さらに5歳の年の冬に“言葉を改(あらた)めてという

記述がある。

 

そして、若姫の養父、金折命(かなさくのみこと)は、

姫にあわの歌”を教えた。

“常に阿()()(うた)を教(おし)ゆなり。”

 

この歌を知っている現代人は少なくない。

その歌とは、

“あかはなま  いきひにみうく

ふぬむえけ  へねめおこほの

もとろそよ  をてれせゑつる

すゆんちり  しゐたらさやわ“


この歌は、体の中の気を整える働きを48音で、

48の経絡に呼応する言霊によって、為され順気

を回すといわれている。 


秀真伝えでは、

若姫の神は常に葛(かだ)(がき)(うち)の、

(こと)を弾()ながら、()()(うた)

(うた)うなり。

 

(おのづ)と音声(おんせい)の道が開けて言葉が

明らかとなれり。“


若姫は琴の音を伴奏に常に、あわ歌を歌った。

すると、五臓六腑ほか命門が整い、身体が順気の

巡りのおかげで病知らず、長命を得る秘訣を

体得したと、以下のように記述されている:


“五臓(ごぞう)・六腑(ろっぷ)・緒()

(命門(めいもん))を五音七声

に別()け、人身呼吸の気が通りて

左右二十四経に通い四十八声となる。


身体(からだ)の中の順気が滞(とどこお)

なく循(めぐ)り、(おのづ)(やまい)

知らず長寿を得る(のり)なり。“

 

中国から 気功が伝わったとか、印度のヨガから

気の調製術が伝わったとか諸説あるなか、

秀真伝え”を読む限り、日本には、神代の時代に

“人身呼吸の気が通りて左右二十四経に通い

四十八声となる”と”気”について確立した

考えが古代日本には、あったことがわかる。



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