自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

宗教包括的癒しと仕組み

2015年04月11日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

般若の智慧と普遍知識  2015・4・11

******************************************

 

人が生まれてきた目標?

自然治癒力セラピー協会的に答えれば、

本来の健康を保持して最後まで人生を全うすること、そして、

健康が心に抱く考え方や感情に大きく作用されていることを知り、

平和で安寧な心持ちで日常を過ごすこと。

そのためには 本来の自分を知ること…身体は心の影だから・・・

 

自分を知ること。

ほんとうの自分、つまり、自分の本質が神性であることを知ること。

 

だとすれば、

イスラムのメヴァラーナがいう所の自分の中の神の似姿、

ヒューレン博士がハワイの秘法でいうところの 自分の中の真の

アイデンティティー.クリスチャンサイエンスのいう、聖霊に

満たされた自分、古神道でいうところの ”神は人なり。人は神なり” 

の ”自分”、キリスト教でいうところの、”我は真理なり、愛なり”

と説くキリスト的自我,仏教でいうところの仏性,それらすべてに

共通しているのは 求めるべき 真の存在する自分の姿だ。


その自分に立ち戻るとき、病も不完全な姿も消える。

 

なぜなら、“神の善と愛と完全しか存在しないから病気も

とどのつまりはない。

それは神と等しい自分を発見することで 自然と必然的に癒される“

という法則が適応されるからだ。

 

その時、原因、つまり、仏教でいうところの因縁、ヒンズー教で

いうところのカルマは効力を失う。

因縁を超越するバンニャー(般若)の智慧(般若心経の説く

ところ)が”解脱”を可能にすると説くことが実践的に行われるのだ。

 

皆様はご存知だろうか?

ブッダは自分の像を死後造るこ禁じた。

数百年の間、イメージ(像)は創られることはなかった。  

ブッダの像が無い代わりに大日如来や観音像、その他 

文殊菩薩や薬師如来、などといった如来菩薩の立像が創られ、

拝まれることになった。


キリストも“我は真理なり”と言い、像ではなく真理の中に

キリストが生きていることを断言した。

 

現代にも真理は生きている。

体験を語れる預言者達も多く存在している。

その中の一人が ホ・オポノポノのヒューレン博士だろう。

彼の発表した体験談と、その簡単な実践的方法はたちまち

世界中に広がった。


簡単に言えば、人が神格に到達するためには 絶え間なく

自分自身を浄化し続けて行くほか方法がないというのが

博士の結論だ。


そのために、ありがとう、愛してます、ごめんなさい、

許してください の4つの言葉を、絶えず心の中に反復反芻して

理屈抜きに、清めを続けて行くという。


浄めとは どの宗教でも説いているところだが、ヒューレン博士

はそれを、現代的に日常的にわかりやすい実践方法として教えた

ところに共感を呼ぶのだろう。

 

イスラム教では一日の5回の祈りがそれに相当するし、祈りの

前には必ず全身 頭からつま先まで浄めることをする。


神道では禊祓い、

仏教ではお勤めや座禅、などがこの清めの為の修行にあたる。

いずれも滝に打たれたり、冷水に体を浸したり、水による浄めは

つきものだ。

 

人は本能的に”清め”の大切さを知っている。、

人は潜在意識の98%の働き、そこから来る感情や判断、

などの行動を起こしている。


潜在意識には悲しみや怒り、などのマイナスの想念が

ため込まれていて、これらのマイナスの想念を駆除して

(浄めて)いかない限りは 無意識の中で過去の想念に行動

を規制されることを知っている。

 

そう意識していてもいなくても 一般的な日本人は、除夜の鐘

を聴いて一年の穢れを祓い正月には禊ぎ=初詣に行き 

折々にパワースポットと称されるようになった神社仏閣で

本尊やご祭神に手をあわし、波動を整える。

 

神や仏という絶対的な像を目の前にして、その威力に心を馳せ

祈り、一体感を味わい、 守られているという感を強くする

ことで マイナス想念を断ち切り、その影響を防ごうとするのは

どの文化にもみられる。

 

自分の中に神がいると知っている人たちは 寺院仏閣に行かずに、

自分の神格(仏性)と波動を合わせようとして 一人静かに

瞑想をする。

 

私たちの潜在意識が主導している今の意識、現在意識は 

独りよがりだ。

一つの事象を過去の自分の積み上げたデータからしか 五感の

印象を持ってしか、判断できないからだ。


実際、限られたデータしかないのだから、本当の今向き合って

いる問題の要(かなめ)すらわからないはずだ。


嘆けば嘆くほど、足は底なし沼にはまっていく不快感で

よけい、じたばたしたくなり、問題を複雑化している。


かつて筆者の師であった 南インドのサイババ師は”超越意識を

意識せよ”と常に言っておられた。

この意識が神格・仏性・アートマ・人間の実相の智慧を伝達する

意識であるからだ。

 

”ほんとうの自分を知ろう” というのは拙協会ブログのテーマだが、

2005年1月9日のイハレアカラ・ヒューレン博士の日記(公開)を

読むと、同様のことが記されていた。


“問題はそれがいったい、そういうことになっているのか

知らなくても、解決できる!

このことに気がついて、その価値がわかってきたときには、

ひとえに安堵し、うれしかった。


問題を解決するためには、必然の疑問が二つ持ち上がる。

‘私は誰?’

‘誰が主導権を握っているの?’

宇宙の本質を理解するためには、ソクラテスの洞察が

手掛かりになる。

‘汝 知るべし’“

 

自分を知らないとき、本質を知らなければ ヒトはクラゲ

のように海の表面を漂い、物理的結果は即、現象の何かの

欠陥から生じていると思いがちだ。


病気にしても 環境の不整備にしても、人間関係においても、

今起きていることは潜在意識の記憶が 表出している。


その再生モードのスイッチを、現在意識が止めることを

しなければ 踊らされるままになるだろう。


だから 賢者たちは私たちに言う。

”自分を知ろうと、私は誰?”と問い続けなさいと。

 

同時に、その本当の自分に意識スイッチを合わせたい。

超意識にスイッチを合わせたい。

超意識には記憶は一切ないからだ。 

今も昔も、空間もない。

潜在意識の中に堆積している負の想念には一切感化を受けない。

イスラム教のメヴァラーナが言っていた、普遍知識の領域

だからだ。

 

ヴェーダではこの普遍知識こそ、アートマ意識とつなげるブ

ッディ(智慧)と呼び、仏教では般若心経の 般若(バンニャー)

に匹敵する。


キリスト意識もこの超越意識の中でとらえられるし、

善き哲学宗教の本髄、真理と呼ばれるものもこの領域で

とらえられる。

 

私たちは日頃、こうした普遍意識の領域と 記憶によって

管理される潜在意識の領域の間を、行ったり来たりしている。


心を緩ませることなく、だから、浄化を心身ともに続けて

いくことに焦点をあわせて今日も一日を過ごしたいと思う。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛と信仰と癒し ’ヒューレン博士の若き頃の体験)

2015年04月08日 | ハワイの浄化の言葉”ホ・オポノポノ”

凶悪犯たちの精神病院が、愛で、枯れた植木も活き活きした     

2015・4・8

**********************************

 ヒューレン博士は語る。

”わたしは私の外側にある問題を顕在化するため、私の内側で責任を

全うしなければならなかった。 

私自身の有害な考えを清め、それらを愛に置き換えた。

患者たちは何一つ過ちはなかった。

過ちは私の内にあった。“

 

過ち、不完全な状況、状態、それは ”私の内”にある。

だからこそ、

1・絶えず清める

2・めぐってくるアイデアを大切にしてチャンスを捉えて行動とる

3・その後も清め続ける


重度の罪を犯した精神性疾患をもつ、彼らは 患者 ではあったが、

ヒューレン博士は当初、”彼らたちはおろか病棟そのもの”に”愛を感じて

いなかった。”という。

“壁を観たら塗装が必要だと思った。ところが、どんな新品のペンキ

を塗ってもつかない。すぐに剥がれ落ちてしまう。

そこで私は壁に向かって愛していると言った。

暫くたったある日、誰かが塗装したところ、今度は定着した。“

 

当時の博士を良く知る 病院のソーシャルワーカーは次のように

記している:

”私は当時ハワイのある州立精神病院で新たに開設された

犯罪法医学ユニットのソーシャルワーカーとして着任しました。

同ユニットはCISUと呼ばれ、殺人、レイプ、暴行、窃盗、婦女暴行、

もしくはそれらの重犯に問われ、加えて深刻な精神錯乱状態に

あると診断された囚人患者たちを収容していました。

・・・・略

統合失調症、躁うつ病、知的障害、サイコパス(精神病質)、ソシオパス

(社会病質)を煩っているものたちでした。


全員が手首と足首に拘束具をつけられてました。

終日、彼らは隔離病室にいて、窓のない、コンクリートの壁と

天井に囲まれた異質にいました。


患者のほとんどは、多量の薬剤投与を受け、運動する機会も

制限されていました。

予想にたがわず、事件は頻繁におこり、スタッフが彼らから襲撃

されたり 彼らの間での暴行事件や脱走未遂事件などの他にも

配管電気系統のトラブルやスタッフ間の軋轢など,暗くて気のめいる

荒廃した職場でした。

…略”

そんなときヒューレン博士がやってきた。

“また新たな心理学者がやってきた”と聞いても、どうぜ、

到達水準のプログラムを行って問題をかき回し、あっという間

に去っていくだろうと思ったものです。“


ところが、ヒューレン博士はユニークだった。

“妙に人なつっこく、仕事らしい仕事はしていないように見えた。”

“査定もしない、評価も出さない、診察はしない、セラピーらしい

こともしない、心理学的実験を試みない、それに加えて、遅刻を

良くする。 


スタッフ会議、症例会議には一度も出ない、記録保存をつけないで

義務を怠る.

やっていること?といえば みょうちくりんなSITHといわれる、

セルフ・アイデンティティー・ホ・オポノポノという訓練だけでした。“


”この心理学者は いつものんびりと構え、何かをするのにも

心から楽しんでいる様子、大声で笑い、患者やスタッフと冗談を戯れて

楽しくてしょうがないという風情、何も仕事らしい仕事をしていない

くせに、みんなが彼に好感を持っていました。”


そうこうしていうるちに、何かが変わり始めたのだった。

隔離(隔離)病棟の部屋が見違えるように清潔になった。

患者たちが自分たちの用事と仕事に自覚を持つようになった。

さらに、投薬のレベルがぐんと落ちた。


当時、博士とともにこの疎ましい病院で働いていたソーシャル

ワーカーは言葉を続ける。

”そして、体に着けていた拘束具も必要なくなったのです。

すると、この精神病病院のユニットの中が活き活きとしてきました。

穏やかな空気、明るくなり、殺気立った危険な空気が和らぎ、清潔、

かつ活気に充ち生産的になったのです。


その証拠に以前はすぐ枯れた植物が元気に育ち始めました。

しょっちゅうだった配管のトラブルも,嘘のようになくなりました。


スタッフ間も変わりました。

心を通わせ、リラックスして、熱心に取り組むようになった。

病気欠勤や人員不足が当たり前の博士の来る前の頃から比べると、

人員過剰になることで、受け持ちを失わないかとスタッフは心配

するようにさえなったのです。“


その種証しは、なんだったのだろう?

それは 博士に共鳴した何人かのスタッフたちは、ヒューレン博士

直伝(じきでん)のホ・オポノポノを実践し始めたのだ。

スタッフだけではない。

”勿論囚人たちの何人かも、博士から声をかけられて、このメソッドに

興味を持ち実行していたということです。“

 

博士はこの記述にあるように、ハワイ州立病院、犯罪法医学ユニットで

三年間、週に20時間勤務契約で仕事についた。


当時は隔離病室制度で全員金属製拘束具で手足を縛られ、

統制手段を講じて管理されていたが、いつの間にか、隔離病室が姿をけし、

拘束具も必要となくなった。


肉体的、口頭での暴力も消えた。

投薬の減少もみられ、その代り、ある時点から、患者たちは拘束具や

医療的認可なしに、リクリエーション運動や労働活動を行うように

なった。


すると、温和な空気が生まれ、意識的努力なしに、自然に、和やかで

生産的な空気に代わっていく。


博士がした仕事、セラピーは全くせず、心理学実験もおこなわない、

スタッフミーティングは完全に無視、患者の症例会議には不参加

だったが、“病棟での労働作業にかかわり”

“初の病棟労働プロジェクト~販売用クッキーを焼く~の現場に参加。


初めての病棟外プロジェクトは洗車だったが、関与し、初めての病棟外

リクリエーションプログラムがスタートするときにも参加した。

ジョギングやテニスを患者たちと楽しみ、会話した。


そして“何よりも、熱心に行ったこと、それは 言葉の力による

浄化だった。

ありがとう。ごめんなさい。愛しているよ。許してね。

この4つの言葉で浄化し続けた。


博士は回想する。

”三年間毎週のように、病棟を訪れる前と間、そのあとには、必ず

清めを行った。 私の中で起きていることを清めた“

 

彼らの悪や不改善に対して清めをおこなったのではなく。

あくまでのすべての責任は自分の中にあるとする博士の心をサーチライトで

照らして、寸分の負の感情やエネルギーがないかどうか、そしてあると

気づいたとき、それを消していく作業をおこなったというのだ。

自分を清める。


清めれば本当の自分、神格がその威力を自然と発揮する。

神格がその威力を発揮するとは理屈ではない。

ただただ愛の充ちた空気に周囲が変わっていくということだけなのだ。

ご自愛ください。

自分が愛に満たされそして人にもそれが伝達されていく。

自分が愛に満たされないでどうして人を愛することができるのだろう・・・?


メヴァラーナが言うように愛のない信仰も、どうして信仰といえるのだろう・・・?

人を愛する、人の実相を愛する、人の神格を愛する、ゼロリミッツと

いわれる原点を信頼する、そして、神を知る。

信仰とはそういうものではないかと、思う。


このことはまだまだ紙面が足らず、言葉不足で独りよがりに聞こえるかも

しれない。

愛のない信仰も、うすべったいものだ~そんな気がする。



 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アートマ意識、普遍の智慧、ホ・オポノポノ

2015年04月05日 | ハワイの浄化の言葉”ホ・オポノポノ”

 イスラム形而上的示唆とゼロ・リミッツ(2)   2014・4・5

********************************************

 

先回からの続きです。

**********

“わたしは誰?”と問うこと、その大切さをヒューレン博士は言う。

それは人は神格に戻って生きるべきで、記憶によって生きているのは

苦痛や不幸の上塗りをしていくからだという。

 

神格によって生きるとき、そこには赦しがあり、愛がある。

大部分の人たちは記憶(過去のデータ)によって生きているから、

一つの体験が、古い経験の記憶を呼び覚まし再び、憎しみや思い込み

による摩擦などが生じる。


記憶によって生きる人は疑いやジャッジ(理由づけで裁く)するのが常だ。

 

一方、イスラム教の聖人 メヴァラーナは 

“自分の内側にある、小我に捉われない、愛を見つけよ“と説く。

これも小我に捉われない、無償の愛を軸とした心の領域をさし、神格 

に等しいものといえるだろう。

 

ヒューレン博士は 神格がゼロ地点、ゼロリミッツと呼ばれるものであり、

人はそれが本領として生まれていると言い切る。


“あなたは神聖なる生き物です。 どうして、ゼロになろうとすべきか?

あなたがゼロになれば、すべてが手に入るからです。 すべてです。

それは、あなたが神格のイメージに創造されているということです。“

 

自然治癒力が私たちすべてに平等に備わっているのも、この神格の

イメージに造られているからに他ならない。


本来、私たちは完全であるべきであり、健康であるのが当たり前

であり、楽しく調和的に生きるのが普通なのだ。


あくまで私たちの小我をコントロールし、大我なるゼロ地点の心

に焦点を合わせていればの条件があるだけだ。


それはイスラム教でいうところの、人は神の雛形に造られた 

という考え方だ。

肉体は泥と土に喩えられているが、神性を象徴するものが 神が

最後に吹き込んだ神の“”にあたる。


神のイメージに創造されたというこの箇所は博士の言う

神格のイメージに創造されている”と同一の意味合いだ。

 

博士は続けて言う。

“みなさんは神格のイメージ通りに創造された。

つまり、皆さんは片面だけのコインとして創造され、無限の存在です。“

 

無限の存在という言葉を、観念の世界の中の言葉だけに

とどめないでいただきたい。

神とか無限とか、現実から離れた言葉の記号のように思う人も

いるかもしれないが、実際は、本当に、可能性は無限に

広がっているということなのだ。


奇跡と思えることを、非科学的と称してあまり取り合わない

風潮があるものだが、実際、起きていることは起きている

ことなのだし、その可能性が発揮できて、癌が完治したり、

在り得ない力が発揮されたりすることも稀(まれ)であっても

あるのだ。


稀(まれ)でもそれが起こるかどうかの違いは ただ一つの条件、

私たちが 神格の心に限りなく近いところで生きているかどうか、

神の創造された完全円満な実相を知っているかどうか、

人は神なりという真実を受け入れているかを満たしているか

どうかの 認識の差にすぎない。

 

自然治癒力はそういう意味では形而上的なものである。


つまり、心の振り向け方、心のどこに視点を定めるかどうか、

自分をどのように見るか、自分は誰か問い続けているかどうか、

そういう、心持に大いに寄っているからだ。

 

一方、データ中心の人もいる。

いわゆる頭の良い人、とか、知能在る人などがそれらの

データを数学的にまとめ、分析し結論を出して納得のいく、

科学的論考で回りを導く。


しかし、皮肉なことに、こうした知能在る人たちは、ある意味、

ゼロリミッツから離れて行く傾向にあるということだ。

 

分析や理屈は、神格には必要ない。

自分の持っているありのままの持てる愛情をただ容認するのに、

どうして、理屈がいるのだろう?


だから、ヒューレン博士はこういう。

 

“知能の高い人が考えすぎてしまう罠にはまると、

もうどうしようもない。

ハワイではそのことを、‘Kukari Pa’a’といいます。

クカイ・パーの意味?それは知的便秘のことです。”

 

知的便秘、面白い表現だが、知的に考えすぎた挙句、消化不良

をおこし、出すべきものが出ない、良い結果が生まれず、そこで

滞ってしまい、前進できなくなる状況をさす。

 

イスラム教の聖者、メヴァラーナも同様のことを 

“普遍知性は魂の奥底で真理を直観したときに得られるもの。”

と言い、

世俗的な中で取得する智慧と区別している。

真理を魂の奥底で理解する~言葉では、簡単に書けるが

実際そのためには、頭で考えるのではなく、体験し失敗し、

気づき、また再度体験していく過程で得られるのだろう。

 

しかも、自分の心の中の良心、あるいは、ゼロ地点の声を

どれだけ聞いて耳を傾け実践できるかということに依るのだろう。


弁舌が立つ政治家が偽善者ではなく 本当に良心ある政治家で

あるかどうかは誰も見極めることができない。 


時間が証明すると言っても、その時間は10年か100年か

それも分らない。

ただ政治家の良心、ゼロ地点の声、あるいは、神格の声が

それを知っているのみだ。

病や不幸に見える事柄、それは他者から来ることはない。

すべて自分自身の心の反映だと気づいた人は、自分自身の心を

神格に回帰させることによって浄化し結果を変える。

 

自然治癒力セラピー協会の言葉を使わせていただけば、

アートマ意識に戻ったとき”その人の周りは、その人を含めて

円満でしか在り様がないのだ。


3月24日のブログの内容の重複だが、イスラム教聖者メヴァラーナ

は次のように倫理観を定義して 自分を律するように教えた。

高慢、執着、賄賂、他者への批判、嘘などを次のように定義して

慎むように述べた。

 

*高慢; かつて、天使であったものが、罰を受け永遠に神の赦し

を得ることなく、悪魔となってさまよっている。 

すべて高慢さから来たものである

 

*富への執着;富への執着とは、喉に詰まったワラである。

現世の名誉や財産に、目のくらんだ人々の喉に詰まっている

このワラは、永遠の至福の源となる、生命の水が喉許を過ぎ

体内に浸透するのを邪魔している。

 

*賄賂; 賄賂がまかり通ると、正義は麻痺し、秩序は乱れる。

人々は混乱し、暴君と名君、圧制と善政の判別ができなくなる。

 

*他人の欠点をあげつらうもの;そもそも人間は、自分の短所

の数々を気に病まずにはいられない。

一旦気づけば、何とかして直そうと躍起になり、他人のことなど

構っている余裕はない。


それでも他人の欠点や短所をあれこれ詮索するのは、

結局は自分の欠点を受け入れらず、他人に押し付けようと

している場合がほとんどである。

 

*うそ; うそは言うものも言われるものも 心の疑念を

呼び覚まされ、気の晴れることはない。

だが、真実は常に心に平穏と安定をもたらす。


一方、人間の良心のなせる善行を、次のように定義して

賞賛している。

 

*謙虚さ; 謙虚さはその人の価値を高める美徳である。

実を結ばない木の枝は空高く伸びる。

それにひきかえ、たわわに実る果実をつけた枝は垂れ下がる。

果実が実れば実るほど、体はその重みで垂れ下がるが、

地面に触れて泥に汚れぬように、必ず添え木が差し出され、

支えてもらえる。


謙虚さについては、預言者ムハンマドがその好例である。

彼こそは、現世と来世双方の果実を一身に集めた、

世にも珍しい貴重な枝である。

 

*寛大さ; 心 優しく寛大な者が貧者に救いの手を差し伸べるとき、

その手は楽園の木々に触れているのだ。 


彼が、貧しい隣人たちのために費やしたものは、審判の日に

再び彼の手元に帰される。

 

*約束の尊守;約束を実行するかどうかが、その人の誠実さを

測る物差しとなる。

誠実な人だけが賞賛するに値する。

 

*怒りを鎮める;怒りの感情が湧き起こっても、それを抑制

することが出来るものは、神の怒りをも免れるものたちだ。

 

*忍耐;忍耐こそ、救済の鍵である。 忍耐はあらゆる種類の

困難を取り除く。

 

謙虚さ寛大さ、怒らない 忍耐 などの徳を取り上げて薦めた。

具体的なこうした事項を知り、守ることが、自分の中にある、

心の本源につながると知っていた。

怒りを例にとれば、抑制することというのだが、ヒューレン博士は、

自分を清める、つまり、I love you, Thank youなどの言葉を

心で言い続けることで、ゼロ地点に戻る努力をするほかないという。

 

いずれの方法にしても、小我の感覚に惑わされず、その感覚は

心の原点に返るきっかけをつくってくれるものとして受け止め、

本当の自分の軸から、ぶれることが無いように、一瞬一瞬の

積み上げが人生の幸せの秘訣といえるのかもしれない。

 

   

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イスラム教とホ・オポノポノとの共通的形而上認識 

2015年04月02日 | ハワイの浄化の言葉”ホ・オポノポノ”

イスラム形而上的示唆とゼロ・リミッツ   2015・4・02

*****************************************

メヴァラーナのイスラム教の、本源的教えを数回にわたり載せさせて

いただいた。

その第一回のブログタイトルは、”形而上的癒しとの関連性”と

つけられていたが、まだその総括がなされていない。

 

形而上的癒しとはそもそも何ぞやということだが 、科学的といわれる

現代医学の常識を超えて、超物質的で精神科学的な原因をみつけ、

それを取り除くことで得られる癒しをさす。

 

病のみならず、ストレスのもたらす現代病、心全般の不健康な状態を

改善することを含む。

エディー夫人のクリスチャンサイエンスにしても、心の恐怖から

死に至る例や、反対に心の安寧と強い信仰心から来る安堵感に

支えられた患者の回復力の速さなどもたびたび例に出して 

形而上的癒しを説明している。

 

それでは、イスラム教のトルコ中世時代のスーフィーの

聖者メヴァラーナの教えと、形而上的癒しはどう、つながるのだろう?


彼の残した作品は安易でわかりやすい言葉で述べられ、

イスラム教聖典クルアーンのエッセンスを優しく抽出したと

いわれている。


これまで数回にわたり、愛、倫理、人間、信仰、宿命 

などの項目に分けて連載させていただいた中で、形而上的癒し

に結びつく言葉をとりあげてみたい。

 

そのために一人の現代の預言者に登場していただこう。 


実質的に多くの癒しの実績を誇る、ホ・オポノポノの福音家 

ヒューレン博士の言葉を主体にしながら 比べてみたいと思う。

その前に、預言者と予言者とは異なることを含み置きたい。 


預言者とは超越意識を通る宇宙意識を伝える人、

予言者と呼ばれる未来をあらかじめ予測できる人とは意を異にする。


ところで、形而上的な癒しは 科学的ではないと言う人がいる

かもしれない。


そもそも科学的とは何だろうか?

データを集めて集計して、得られた結果を科学的というのなら、

それは、そのデータの集め方やデータのカバーする範囲での

集計結果に他ならない。


見えない科学の世界で起こっている、データにまだなって

いない事象を考慮せず、非科学的と排除されるのなら、

科学的なものは、果たして本物であるのか?という疑問も残る。

 

現代医学では人の体を固体的物質とみなして、局部を治療する

ことを目的とするが、本来人の体は、有機的につながっている

ということ、また、固体ではなくてエネルギー体であるという

ことは、ほとんど医療分野にまだ現実に生かされていないのが

現状のようだ。


現代物理学の量子論で最先端の発見に基づけば、それらはすでに

実証されているにもかかわらず、医療研究が その真実に、

まだまだ追いついていないような気もする。


とはいえ、心ある人、賢明なる叡智を持った人 一部の医師は、

そのずれとブレを感じ初めているようだ。

 

そのあたりをメヴァラーナも ヒューレン博士も同様に違う

言葉で語っている。


メヴァラーナは 

病人を医者の許へと連れて行くのは、知性【個別知性】の

働きによる。

だが実際の治療には、この知性は何の役にも立たない

という。


治療して治る ということ 知性が役に立たないということ、

それはどういうことか?


それは、彼は、”究極的な癒しとは、その人の中にある普遍知性

がその人の体の管理能力を発揮する”ことで完治できると

考えているからだ。

(3月21日ブログ内容から)

 

ここでいう個別知性とは普遍知性と対象的な意味合いとして

使われている。

個別知性を獲得するために人は常に学び続ける。 


しかし、普遍知性は魂の奥底で真理を直観したときに得られるもの。

そして 癒されるというのは普遍知性が体の中の細胞意識で

働いたときに可能になるという。

 

一方、ヒューレン博士はどのようにこのあたりをとらえて

いるのだろうか?


次のように、講演会で話している。

“科学では、私たちの暮らしに起ころうとしている物事を、

正確に割り出せません。


数学も、ゼロがあるゆえに、不確かです。

結局はチャールズ・サイフェの著書(*1)で著者が結論

づけているように‘科学者たちは皆、宇宙が無から生まれ、

いずれはその元の無に帰することを知っている。

森羅万象はゼロに始まり終わる‘ のです。“

 

ここでは森羅万象、自然界のゼロ(無)について博士は

語るが、心の領域でいえばそれはゼロ・リミッツに相当する。


先ほど述べた現代科学の前置詞として、データの解析が置かれる

ように、そうしてデータや知的解析分析のない心の状況を指す。


“わたしのゼロ地点の心には何もありません。

聞こえるのは異なる種類の数式:空、無、そして純粋 という

ものです。 

私の心はいつもゼロに戻っています。”


博士の言う、ゼロ地点の心の中にあるものは、’大我’である。 

自分の本質の領域であり、神格に相当して、常に神との

霊感で結ばれていると博士は考える。


そこにこそ、創造があり、新しい活き活きとした行動の

原点もある。

それは神の天地創造した際の 神の領域にきわめて近い

ものだからだ。


“心がゼロに在るときは、創造が行われます。

その時霊感が働きます。

ハワイではこの霊感をHa と呼び、Hawaii のwaiは水を、

i は神をさします。

つまり、ハワイとは神の息と水 という意味です。“

 

ここで霊感=息という意味合いで、ヒューレン博士が使って

いることだ。

これは翻訳者の気の利いた計らいなのか、原文が息という英語で

書かれていたのか、確かめることができないが、まさに、

イスラム教で教えるところの 


”創造物、神の雛形として造られた泥と土をこね合わせた塊り”に、

神は”息” を、ふきかけ人間と創造したという行(くだり)に

みられる ’息(いき)’の意味と同じくするものだ。

 

或いは 息の代わりに 博士のいう 霊感(神格と繋げる直観)

と言葉を置き換えても、十分に人間の定義に相応しいものになる。


さて、先ほど少し述べた普遍知性に関して 、ヒューレン博士は

次のような言葉で定義する。


“神性なる知性とはこの霊感のすべてが宿りくる場所であり、

それは皆さんの中にあるのです。

どこか別の場所にあるのではない。 

どこにも行く必要はない。 

探しに行く必要はないのです。”

 

普遍知性=イスラム教でいうところの普遍知性は、魂の奥底で

真理を直観したときに得られるものと同様の観方で、’神性なる知性’

を説明している。


ヒューレン博士のいう ’普遍知性’も神性なる知性として

人の心の奥底にすでに備わっているのだ。


”イスラムと人間”という項目で 3月18日に投稿した内容から

みると、ヒューレン博士の考える人の心と重なり合うところ

がある。


ヒューレン博士は次のように心をいくつかに仕訳している。

“神性なる知性の宿る領域。 

神格に属する超越意識の領域。

時空を超えた意識~Aumakua アウマクア。

現在意識の領域。Uhane ウハネ 

潜在意識の領域。Unihipili ウニヒピリ“

としたうえで

一番大切なことは、‘私は一体誰?’と問うことです。”


ゼロリミッツである、神格に至ったとき、神聖な生き物に

なることができる。


大我意識で小さな自我意識、ウハネはウニヒピりを超えて、

アウマクアもさらに超えた自分。 


一方 イスラム教のメヴァラーナは”人間自らの価値を確認して、

内奥を探求すること”

で”真の【人間】”になると考えた。

 

一方、こう、メヴラーナは歌う:

生命の奥深くに眠る魂を探り当て、あなたの導きとせよ・

肉体という名の山奥深くに秘められた財宝を探り当てよ。


探求者よ、能う限りの力を持って、必ずそれを見つけ出せ。

外ではない、あなたの内側、あなた自身の中にこそ

あなたの探し出すものが見つかる”


さらに、

あなたは水でもないし、石でもない。 

何か特別なものだ。あなたは旅の途中、もはや、

泥土の世界から遠く離れたその体には、形作られた灌漑

(かんがい)があり、あなたの精神はその中を永遠に

流れる水に等しい。


けれど、あなたはそのことに気がつかない。

自分の自我に固執している限りは。“

 

普段持っている自我意識と 身体の中に永遠に流れる川の

ように存在する、ある精神を知る自分とは違うという。


その或る精神とは、神が自身を人型に託し 息として

ふきこんだ神性知る自我をさす。


小我と大我との違いにあたるだろう。


そうだとするのなら、ヒューレン博士の言う 

神格、ゼロリミッツと、メヴラーナの言うところの“身体の中を

流れる永遠の精神”こそ、同様のものであるに違いない。


これを知ることが 形而上的癒しの一歩であるということは

後日の話題に譲りたい。

 

*1)*Zero:The Biography of a Dangerous Idea”~

’異端の数ゼロ/数学・物理学が恐れる最も危険な概念 

早川書房刊

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする