自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

介護と感謝の効用

2015年06月13日 | 介護と自然治癒力

 静代さんの場合    2015・6・13

**********************************

 

前回の続き)

谷口師はさらに続けて こう述べる:

“清らかな美しい愛の心が静代さんに起こってきたら もうこちらの心が

穢いものを吐き出さなくなったのですから、こちらの心が映って、

その御爺さんの‘糞たれ状態’が治ってしまったのであります。

そして、‘あの御爺さんが私にウンコの世話をさせるのは 

愛しにくい相手でも愛する稽古をさせてくださるために来て

くださったのである。

 

私に‘徳’を積ませに来てくれたのである。 

本当にあれは仏様の化身である。

私に‘徳’を積ませてくださるんだ。

有難うございます‘とこういう気持ちになっておられた。

そして、さらに、あらゆるものに対して、’有難うございます。

有難うございます‘と

感謝するような気持ちになっておりましたら、本当にそのように

万事善くなってしまったわけなのです。

感謝の心は万事を好転させるのであります“*1

 

人の本質を信じる。

自分の本質を信じる。

すべては善であることを信じる。

 

たとえ、一時的に黒雲が覆い、雷雨が来て嵐が吹き荒れようとも、

必ず日が昇る~

詩の文句そのものだが、谷口師はその真実を以下のように表している:

 

“我我は人生の行路において、時々は予想外の出来事にぶつかり、

失望や困難や見せかけ損失にであることがあるであろう。 

しかしながらこれは決してその人の魂の進歩にとっては悪ではのである。

なぜならば、唯一の善は魂の進歩①のみであるからである。

我々がそれら経験する困難を困難として受けずに、

それを祝福として感謝して受け、

それと協調して生活するならば

一見困難と見えたものが、きわめて善なる結果をもたらし、

一層高く、一層善きものに点ずる飛び石となるのである。

かくのごとくして、神に結ばれている限り、われわれは人生に何等

悪が起こらないということを見出し、ただ、善のみを見ることが

できるのである。

しかしこのためには常に神に祈り、神想観②をし、神の智慧の

導きを受け、自己に来る経験を神からの祝福として感謝して

受けなければならない。“*2

 

唯一の善は魂の進歩という言葉、傍線①は、どういう意味なのだろう?

この唯一という言葉、一元的哲学でいうと、存在しているものは

対局性のあるものは

なく、実際、実在(変わらずに実存するもの) という意味を含む。

つまり、悪が存在するように見えるが究極的には善しか存在できない、

存在していないという一元論的発想である。

 

私たちはどんな回り道をしても、

究極的には善の道に合流することになっている。

善の道とは進歩、愛、生かしあい、調和、生命の道だ。

愛とは、感情的な情愛でなく、相手を生かしたいという無償の愛、であり、

相手が輝けるような活き活きできるような言葉と行為で生活することだ。

そうすることで自分の周囲には調和が生まれ、調和が生まれれば、

軋轢やぶつかり合いがないばかりか、自分自身を生かしている 

大生命の波動とも一致するから自然に健康になり、

生き生きとした生命力を味わうことができるのだろう。

それを谷口師は神に結ばれた状態と言葉を替えて表現しているし、

そのために神想観 など、常に自分の実相と結びつく努力を行い、

そこから得られる純粋で真理的智慧と直結することを薦めている。

 

常に神に祈る。

仰臥どんなに体を動かしていても、心は神を想う。

それが祈りだ。

形式が問題なのではなく、自分の中の良心、アートマ、ハイヤーセルフ、

神格、と呼ばれる善なる本質の我にアンテナを常に合わせること。

 

そうしている限り、どのような状態になっても、静代さんのように、

有り難い、自分の徳を積ませていただく機会を与えられている”、とか、

有り難い、自分の愛をもっと開かせていただける”とか、“

有り難い、自分のカルマがこれで解消して、解脱に近づける”とか、

すべて、有り難いと感じ、神の祝福として受容できるようになるという

ことなのだろう。

 

さて ここまで教えていただいて、あとは私の母との向き合いかたへの

生かしていくということになる

その効果については、皆さまに良い結果報告をお知らせできる日まで

お時間をいただきたい。

 

 

(*2  新版”生活と人間の再建“279~280頁

 

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生長の家の介護論

2015年06月10日 | 介護と自然治癒力

 


実相一元論から見る介護の意味     2015・6・10

******************************

介護と愛について~理想を言うほど実行は難し~だが、

認知症で脳細胞が萎縮し、妄想や記憶の低下、食欲の絶え間ない増進、

理不尽な言動とそれに向き合う人 特に家族への配慮の無さは典型的な

認知の症状の一つでもある。


それを改善するために、薬で抑えるより仕方がないとするのが 

介護現場での大方の見方だろう。

 

その点を 谷口雅春師はどう考えておられるのだろう?

こうした症状の非介護人を前にして、一日中、振り回される介護人は、

どのようにゆとりをもって“愛”を行うことができるというのだろう?

 ここで具体的な例として 当時浜松市に住んでいた 鈴江静代さんの

実例をあげて、谷口雅春師は、介護の本質を、説明している。


静代さんの介護の状況は以下のようであったという。

 

“静代さんの夫の父は、長男、次男から嫌われ追われるようにして、

静代さんの夫三男の家に同居するようになった。

義父は最初から静代さんの挨拶にも横を向いて、お酒を一日一升のみ、

静代さんの出した食事には文句をつけ、大腸カタルになってしまう。

大便を漏らし、その世話をするにつけ、静代さんの心の中で‘

本当に憎たらしいくそじじい’と言葉にならぬ言葉をもらすのでした。

或る日、谷口師の主宰する‘生長の家’の講師に、個人指導を受ける

機会を得た。

すると思いがけないことを言われた。

‘あなたは素晴らしい御舅さんを家に迎えましたね。“

その言葉に隠された意味は 

あのおじいさんはあなたのところへ徳を持ってきたのですよ’

と言う意味だと知った静代さんは、今までの文句不満の心から

180度転換した境地になったという。

 この御舅さんによって、私は徳を積ませていただくのだ

そういう思いで心が一杯になると、御舅さんの、これまで静代さんを

煩わしていたお世話が、有り難く感じられるようになった。 

大便で汚れた下着を始末する際、これまでなら、

どうして、こんなに汚いものを洗濯しなければならないのだろう

と思っていたが、

‘これで徳を積ませていただきます’と‘有難うございます’

と静代さんは、唱えて行うと、本当にそのような感謝が湧いてくるよう

になった。

’憎い憎い’と思っていたお舅さんが、いつの間にか‘かわいい

とさえ思えるようになり、愛情も湧いてきた。

そしてある日、静代さんは、御舅さんに

お父さん、これまで私はお父さんのことを思わず、親不孝をしてきました。

すみませんでした

と謝ると、それを聞いたお舅さんの目から、大粒の涙がぽたぽたと落ち、

それ以来、静代さんとお父さんの中は、本当の親子のようになったという。

(*1)

 この実例に関し 谷口師は次の心の法則を説明する。

“これは‘立ち向かう人の姿は鏡なり、おのが心を映してや見ん’

という黒住教祖(*2)の説かれた真理が、本当であるということ

の実例であります。

今までは ‘このくそたれ爺め、くそ親父め’と思っているから、

その思い通りの糞をたれておった訳なんですね。 

そして 糞をたれればたれるほど、‘この汚いものを洗わせやがって’

と思って、静代さんも人を憎む‘穢い心’を起こす。

静代さんが‘穢い心’を起こせば起こすほど、そのおじいさんは 

益々‘穢いもの’を流しだすという風に、連鎖反応を起こして、

いくらでも悪い業が循環しておったということになっているわけです。“

(引用終わり)

 それを一般に 想念に引っ張られて、その事が起きる、

唯心所現といったり、そういう世界のことを、業(ごう)とか

カルマの世界とか呼ぶ。

その業の鎖にはまってしまうと、なかなか切ることが難しいものだが、

谷口師は

そのような業の悪循環を断ち切る道が‘感謝’なのであります”

と述べる。

感謝と一口に行っても奥が深い。

有り難いと思うということはどういうことなのか?

次回に譲りたい。

続く~

 

*1~”谷口先生を学ぶ” 誌 5月号より

*2~黒住教 - Wikipedia

 ja.wikipedia.org/wiki/黒住教 - キャッシュ

黒住教(くろずみきょう)は、岡山県岡山市今村宮の神官、黒住宗忠が

江戸時代(文化 11年11月11日・西暦1814年)に開いた 

祭神は「天照大御神」「八百萬神」「教祖宗忠 神」の3柱。 .

現在でも旭川荘では、黒住教の信者による奉仕活動が行われている。

 

 

 

 

 

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谷口雅春師の一元論の中にみる親孝行  

2015年06月07日 | 介護と自然治癒力

 生長の家の親孝行論   2015・6・7

************************

 

親孝行と 書く漢字。その中の”孝”の象形文字の意味は、

“子が老いた親をおんぶしている象形”であると

谷口雅春師は述べている(*1)

 

これは、親をいたわる、象(かたち)でもあるが、

もう一つの深い意味がある。

それは、“子は親の生命を背負って出現した”という象(かたち)

でもあると師は言う。

いいかえれば、“子の生命”の淵源が親であり、その親の生命の源

が祖先であるわけだ。

だから、この文字は、親子一体、“祖孫一体の愛”を表現する

文字といえそうだ。

 

谷口師は続いて述べている:

“子が親につかえ、親が子をいつくしむ親子の愛情はその生命の

淵源する一体の実相から来るのである“

私たちの生命は脈々として子孫へ流れていく。

親から子へ、そして子から孫へ。

大生命の大元(おおもと)のところで 親と子は一体である。

そう考えれば親に尽くすことは 自分自身の生命力を生命の本質

により近しいところで、愛という花にして、開花させることに

なるのだろう。

 

新・人間性の解剖“(p・63~4)では谷口師はその考え方

を次のように説明する。

“なぜ、私たちが孝養を尽くさねばならないかというと、

:自分の生命はどこから、発祥したのであるかというと、

これは神様から発祥して、それから祖先を伝わって、

お父さん、お母さんから~こう出てきたのです。

人間の父、母がなかったら、神様の生命が人間として、

また、‘自分’として顕れようと

思ったとて、顕れる状況にはいかないのです。

人間は因(もと)を知ってそれに、感謝しなければならない。

つまり、‘恩を知る’ということがなければならない。

‘恩’とは‘因(もと)’の‘心’と書く。 

本を大切にする心は、樹木なら根や幹を大切にする心です。

根や幹を大切にしないと枝葉は枯れてしまいます。

恩を知るということは根を培うことであり、

われわれは祖先、父母、先師などの過去の功績の上に、

しげる枝葉なのですから、その枝葉が茂るためには、

根を培い、肥料を施さなければならない。“

 

“孝行” の意味は “親を大切にする” のみでなく、

生命の木の末端にある自分を

生み出した大いなる木の幹や根っこに感謝するということ

でもありそうだ。

この樹があるからこそ、枝葉として今自分が生きている。

“その恩を知る”という心から自然に出てくる“感謝”と 

その感謝の発露、“愛情行動”が親孝行という。

 

すべては神、全き善より発祥している~という “一元論” 

を説く谷口師の“親の位置づけ”は とても高いものだ。

 

汝ら兄弟のうち、最も大なるものは、汝らの父母である。 

神に感謝しても父母に感謝し得ないものは神の心にかなわぬ。” 

と大調和の神示の中でうたわれる。

筆者も学生時代、谷口氏の教えに大いに影響を受け、

感化を受け、多感な青春時代を

アトピーや種々の体の不調や一種の鬱状況を、乗り切った

思い出があるが、今再び、母の介護という形で 

介護の本質を谷口師の教えの中に見出そうとして

振り返っている。

文字通り、今年の2月 私は老いた親を背負って歩く

事態を迎えた。

胸骨骨折に続き、翌月、大腿骨骨折、軽い脳梗塞で

よちよち歩きの母、誰かの目と手と足が 24時間必要

となってしまった。

多々迷いはあったものの、施設に当面は入れず、

母と向き合うことを選んだ。

“母から受けた無償の愛を、今度はお返しさせていただく。”~ 

これは、私の母の介護に向かう大義名分でもある。

それではその“愛”とは何か?

谷口雅春師の著書の中からその意味を探ってみたい ;

“真の愛”が燃え上がるとき、その人は、愛の焔によって

浄められ、強くせられ、鍛えられる。

そして‘自己の幸福’などという‘狭い根性’は消えてしまい、

聖き、高き、広き愛となって、燃え上がり、力と勇気とが

わき出でて来るのである。

 

”愛の焔によって浄められた力と勇気の前には、いかなる障碍も、

太陽の前の霜のように消えてしまうのである。 

もし、あなたの前にたちふさがった障碍が消えないのならば、

あなたの愛がまだ十分燃え上がっていないからである。

相手を愛せよ。 愛するとは‘実相’の完全さをみて、礼拝と

感謝の念を起こすことなのである。“ *2)

 

夜もほとんど寝ず、家の中を  娘の名前を呼びながら、

探し、徘徊し 片時も目を離せなくなった母と過ごす長い夜

母の後ろ姿を追い、緊張と睡眠不足でへとへとになってしまう私、

弱音を周囲に 思わず漏らしてしまう弱い自分を省みながら 

上記の師の喝を入れる言葉を味わった。

この三行の意味合いを私の状況に置き換えればこうなるだろう。

 

愛の焔によって浄められた力と勇気の前には、

あなたの母親のどんな暴言も暴挙も太陽の前の霜のように

消えてしまうのである。

もし、あなたの前に まだ母親が問題を提示していると思うのなら、

それはあなたの愛がまだ十分に燃え上がっていないからである。

 

 

*1)“幸福を開く鍵”p・149

*2)“愛はかくして完成す”( p。174)

 

 

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最古の”順気を整わせる”のに使われた言霊

2015年06月04日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

西宮廣田神社由来とわか姫 ~秀真伝えから~  2015・6・4

*********************************************

 

夫が以前西宮に住んでいたので、

インドから年に数度訪れては、

自宅から散歩がてら、廣田神社

に出かけた。

廣田神社の御祭神の由来は

神社入り口にパネルが立って

いて説明されていた。

姑(はは)に秀真伝えを教わって

から、その中の6綾に書かれて

いる内容から、廣田神社の

本当の由来ある神様は 

いざなぎ・いざなみの神様

(ご夫婦)の長女にあたる、

若姫であるということを知った。

日本の文化の中で 和歌の歴史

は長い。

和歌があり、俳句が生まれ、言葉

の巧みさを知ることは言霊を

操ることにも通じて、その人の

奥行の深さと素養を知る一端

にもなった。

源氏物語を読めば 和歌の

教養が貴族人の一番、尊重

する資質であり いかに

和歌を通しての心のやりとり

や言葉が尊重されていたか

知れる。

 

さて、今日は 言霊の重要さ

を現代においても、知りうる、

日本の和歌のルーツとそれに

一番縁の深い 和歌[若]姫の

お話しだ。

 

ご紹介したい。

 

まず、原文から引用する

箇所がある。

それ和歌の本緣について

述(の)べると、古天両神の

長女にます若姫の神は、

三歳になる時父母神の厄年

にあたるなり。

故に三歳になる直前に、

岩(いわ)楠(くす)船(ふね)

に乗せられて、

棄(す)てられ給う。

金折命はこれを拾(ひろ)った

と云(い)って、

廣田(ひろた)に西(にし)殿(どの)

を建(た)て、其の妻の乳(ち)

をもって養育をなすなり。”

 

かなさくの命 は住吉の神

という別名がある。

浄化の神様であると私はかつて

聞き及んだことがあるが、

その本源には言霊を使って

浄化されていたことが

うかがえる。

その一つに、わか姫を拾って、

養育するにあたり教えられた 

和歌のお話しが秀真伝え

6綾に出てくる。

 

わか姫は いざなぎ、いざなみの

神(御両親)の厄年(やくどし)

を避けて、忌みを避け、小船に

乗せられて川に流された。

それを拾われた神が 金折

(かなさく)の命であった。

廣田という地名の場所に

養育の場を設けて 妻の乳

を与えて若姫を育てた。

それにちなんで、廣田神社 

がたてられたとする。

 

どのように養育されたかと

いえば、

”初めにアワウワを教ゆる。

手を打(う)ちて気を開(ひら)き

眼を細(ほそ)めて笑うなどなり。

三歳の誕生日には初めて食膳

を供え、食を進めて行儀を

教ゆ。

三年の冬至(とをぢ)には

髪(かみ)置(をき)の祝をなす。

正月元旦には初日(はつひ)

餅(もち)を搗(つ)きて、

天地(あわ)の神(かみ)に

供(そな)えて敬(うやま)い

父母(ふぼ)神(がみ)に

礼(れい)をなすなり。”

 

かいぐりかいぐり

とっとのめ、あわわわ・・・

 

今でも地方で、あるいは 

年の功を奏した祖父母は 

こうした古くからある言葉

を口に出して、赤子をあやす。

手をたたいて、順気 を

赤子から導きだし、さらに

ニコニコと笑顔で

あやしたり、赤子や喜んで

いる様子がここに描かれる。

三歳の誕生日、昔は 数え年

であったから、今なら

満2歳に 食膳の祝いをして

大人と同じ固形食を口に

することを始めたのだろう。

同年冬至に 髪の毛の

スタイルを女の子に

ふさわしく整え初めたのだろう。

正月には 餅をついて、

食べたとある。

現代にも残る、餅つきの行事

や鏡餅、雑煮の習慣などは

すでに神代の時代から続き、

古(いにしえ)のルーツに行きつく。

正月が過ぎればモモの節句となる。

 

”三月三日には桃(もも)の花を

供(そな)えて雛(ひな)神(かみ)を

祭り、五月五日には菖蒲(しょうぶ)

と粽(ちまき)を供(そな)える。

七月七日は木綿(ゆう)・麻(あさ)・

栲(たく)機(はた)を祭り、

九月九日は菊(きく)・

栗(くり)を供え祭るなり。

五年の冬には、男は袴(はかま)・

女(め)は被衣(かつぎ)を着(き)る。”

 

この綾には、桃の節句をはじめ、

5月5日の節句、現代は七夕と

称している7月7日の節句、

重陽の9月9日の節句がすでに

超古代に存在していることを

伺わせる。

七夕の祭りは中国が起源とする

説があるようだが、この6綾を

読めば超古代の日本に 

7月7日には機を織って祭り

祝う風習があったことがわかる。

 

7・5・3のお祝いにも

触れられている。

三歳の女の子の髪整え、そして

5歳には男子女子が正装をして

祝うことも書かれている。

 

さて、最もこの綾で重要なこと

は次の点だと思う。

それは、

”言葉を改(あらた)めて常に

阿(あ)倭(わ)歌(うた)を教(おし)ゆなり。

あかはなま  いきひにみうく

ふぬむえけ  へねめおこほの

もとろそよ  をてれせゑつる

すゆんちり  しゐたらさやわ

若姫の神は常に葛(かだ)垣(がき)

鼓(うち)の琴(こと)を

弾(ひ)きながら、

阿(あ)倭(わ)歌(うた)を

謡(うた)うなり。

自(おのづ)と音声(おんせい)

の道が開けて

言葉が明らかとなれり。”

 

あかはなまの歌、 あわの歌を 

金折命はわか姫に教え、

姫は琴を弾きながら

謳ったとある。

そして、音声の道が開けて 

言葉が明瞭になったという。

それだけではなく、あわの歌

によって、音声の道が開くと

同時に 体の気道も開けた

ということがここに記される。

それは、

”五臓(ごぞう)・六腑(ろっぷ)・

緒(お)(命門(めいもん))を

五音七声に別(わ)け

身呼吸の気が通りて

左右二十四経に通い

四十八声となる。

身体(からだ)の中の順気が

滞(とどこお)りなく循(めぐ)り、

自(おのづ)と病(やまい)を

知らず長寿を得る法(のり)

なり。

この故をもって住吉(すみえ)

の翁(おきな)は、常に

阿(あ)倭(わ)歌(うた)を

教(おし)ゆなり。”

 

あかはなま の歌は、

私もインド時代、何か息子

の体に異変が起こるたびに

お唱えした。”左右二十四経

に通い四十八声となる”と

すでに経絡に気を通わせる

ということを古代の神々

は知っていた。

現代の東洋医学でいう

ところの 24の経絡、

左右合わせて48の経絡の

存在が書かれている。

それによって

順気が滞(とどこお)りなく

循(めぐ)り、自(おのづ)と

病(やまい)を”観ることなく

長生きできる方法である

ことも述べられている。

 

幼かった息子が

高熱が出た、赤痢になった、

コレラの症状が出た、

デング熱になった、と

異国の地で体調の異変の際は、

すべての状況下、”あわのうた” 

で乗り切ったといっても過言ではない。

常識を逸していると思う読者が

いるかもしれないが、その言霊

の威力は 自分自身、家族をもって

証明済みである。

 

セラピーでも 数回続けて

くださった方には、必ず、

この言霊をお教えする。

生体に気を通しながら、

この言葉を唱えてみる。

すると、生きた言葉になり、

クライアントの方達は気道

が開けるのを実感する。

わか姫の和歌の基盤はこの 

あわの歌にあったのかも

しれない。

和歌姫とよばれるように

なったのも、和歌を本領

としてそれを実生活に

役立てられたからだ。

姫は、生長していくにつれ、

和歌の言霊の威力をもって、

稲虫や害虫も駆除されたと 

秀真伝えには出ている。

 

 

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癌と仲良し:自然治癒力発動

2015年06月01日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

異質なものへの恐怖心をとることが自然治癒力の第一歩   2015・6.1

*******************************

長堀医師の著書からのご紹介だ。

長堀医師が感心した一人の癌患者がいる。

人工肛門を取り付けてがんのため 通過する際

障害をもたらす腸の一部を体外に出した。

この時点での余命宣告は通常、半年前後、うまくいって、

一年前後が多いそうだが、この患者さんは予想を超えて

それから3年半の闘病生活を送られたという。

人工肛門をつけて、6週間に一度 数日間の入院をして

点滴の抗癌剤を受けた。

この患者さんの腹部はその頃には触診だけで ”それと

わかるほど腫れていた”のだが、痛みはなく、食事も

普通に取っていた。

 

長堀医師が感心したというのは、その患者さんの愛情豊かな

心とそれを映し出す笑顔だったという。

 

”いつ腸閉そくが起こってもおかしくなかったのですが、Mさんは

(食事もとれ、痛みもない生活を)一年半ほど、続けられたのです。

入院中、私は朝夕回診していましたが、そのたびに Mさんは

ベッドの上に正座し直し、ニコニコと 

’いつもお世話さまです。 ありがとうございます’と深々と頭を下げてくださいました。

私が病室に入るときはいつもカーテンを閉めているのですが、私だと

いうことは足音でわかるそうです。

Mさんがみせてくれる満面の笑顔に私は癒されましたが、と同時に

病状をしっかりと理解している彼女がなぜ、このように輝くような笑顔を

浮かべることができるのか、死が怖くないのか、と私は不思議に思って

おりました。

ある日のこと、いつものようにMさんの病室を訪れました。

この日もまた、素敵な笑顔を見せてくれたのですが、その後、いつになく

真剣な表情で、’先生、私は手術することになるのでしょうか?’と

尋ねてきたのです。

私は手術をしても癌を取りきれないこと、無理をするとかえって大変な

結果を招きかねないこと、現在抗癌剤が癌の進行を抑えていると考えられる

ことなどを説明し、手術は適当ではないと話しました。

すると、彼女はがっかりすると思いきや、にっこりとして

’良かったです。 私はいつ先生が手術の話をするのか心配でした。

だって、私には肝硬変の夫がいます。

私が長期間家を空けることが心配なのです。

この治療をがんばっていきます。”

と話してくれたのです。”

そして、この患者は長堀医師にこう言った、

”私は本当に夫のことが心配なのです。

あの人は私がいないとどうしようもない。

だから癌の神様にこうお願いしています。”

 

”もう少しおとなしくしていてくださいね。

私はもう少しあなたと頑張って生きていきます。

だから、大きくならないでくださいね。”

 

とお願いの言葉を医師に話した。

ここで長堀医師は思うのだった。

”Mさん自身の病状のほうが重いのに、どうしてそのように

ご主人に優しい気持ちを持つことができるのだろう?”

”ご主人にたいしてだけではなく、癌に対しても、友情や愛情

を持って接しているかのよう

だと。

 

以前ブログでも挙げたことのある、聖心女子大学元教授の

鈴木秀子博士は 病から奇蹟的回復を見せた人の特徴として

1) 現実/自分の運命の受容

2) 生きる意欲をもち、生かされているという認識と感謝

3) 人に尽くしたいという強い願望

を挙げている。

 

前回 ご紹介したハワイで活き活きと余命を生きた 飯島氏は

愉快なことがどうしたら楽しめるかを考える代わりに

今どんな良いこと、小さくてもよいから、できるかを考えよう

と提案している。

善をおこなうこと、その機会をもつだけで、

”あなたの生活健康がどうであろうと、そんなことはこれまでより、ずっとどうでも

良くなるのだ” と言葉を続けている。

 

受容、生かされていることへの気づき、そして、感謝、だからこそ、

誰かのために何かできることを見つけてみる~そうしているうちに

自分の病気や状況がさほど問題にならなくなるというのは、実行してみて

初めて感じる体験なのかもしれない。

 

ならば、健康な人は、この3つのポイントを、今に生かすことで

未病の予防につながるだろう。

活き活きと心が活動してこそ、身体に備わる生理的力も発揮できるというものだ。

長堀医師はこんな実例を出している:

”寺山心一翁さんはかつて右腎臓がんのため、右腎臓摘出、抗がん剤、放射線治療

法を受けましたが、その後、癌が肺と直腸に転移しました。

寺山さんはその死と直面する苦しみの中で自己治癒力を高める方法に気づき

ついにすべての癌が消失するにいたります。

その体験から著書’がんが消えた’の中で次のように語っています。

’あなたは自分自身を愛さなければなりません。

もちろん、癌も含めて。

これはとてもシンプルなことですが、実践するには勇気が必要です。

私はこれが誰もが持つ自然治癒力を解放する鍵だと信じています。’”

 

さて、癌に対しても愛を与える。

とすれば、細菌、バクテリア、などなど、”アレルギー抗原”も含めて 恐れるばかり

でなく 愛をあたえてみたらいかがだろうか?

無茶苦茶な話に聞こえるだろうか?

筆者は ’口の中には多くの細菌がいて、虫歯になったり、体内に入って悪さを

もたらす’ということを聞いたとき、細菌がいるのは事実だが、それが悪さを

働くということが ピンとこなかった。

細菌と仲よくすれば、唾液酵素のように、消化に効能を与えるのはもちろん、

”つばをつけておけば 治るよ” という 荒療治も一理あるとさえ感じるのだ。

ペットたちはみな傷口を舐めて治していたし、筆者が足の指の爪を深く切って

血を出したときも ペットが近寄り舐めてくれ、出血がおさまった。

 

衛生的に徹している人にはインド生活は不潔さで充満しているだろう。

ハエは飛んでいるし、牛のウンチは転がっているし、排水下水は 強いスコールが3時間も

降れば道路にあふれている。

そんな中で、15年いて、歯医者にかかったことのない筆者であるが

必ずしも歯磨きを生真面目にしていたわけではない。

むしろ、帰国後、歯石をとってもらった日本の歯医者さんに

”なんだか、やけくそになっているような磨き方ですね!”と注意されて

上記の”細菌君の恐怖”を教えていただいたぐらいなのだ。

 

相変わらず、やけくそな磨き方しかしていないし、其の後7年たった今でも

歯医者さんには無縁でいられるのも有り難い。

手洗いの大切さを子供に教えるのは大切だが、~石鹸でばい菌をシャットアウトしないと、

病気になるという考え方には疑問がある。

敵のように、細菌やばい菌に必要以上の神経を使うのも、逆効果かと思う。

 

昨今 花粉や自然の物質(犬猫を含めて)アレルギーが増えているのも、

そうした異質なものとの共存、愛 を忘れた結果ではないかと感じるときがある。

異質なモノへの恐怖、それが心に蓄積されていると自然と適応能力は減少する。

子供たちには、自分の中にある 無限の生命力の強さを教えることの方が

花粉を恐れることを教えるより、はるかに有効なような気がする。

 

 

 

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