着物関係の集まりがあった。
この集まりでは 私が一番年下なので、局からパシリに成り下がってしまう。
今回も母くらいの年齢のおばさまが
「局さん NHKの美術手帖で柳宗悦の特集やってたの。私あそこに行きたいので場所調べといてくださる?確か駒込って行ってたわよ」
と言うので へいへいとネットで調べる私。駒込でなく駒場じゃん。とブツブツ言いながら、近くでランチの場所も確保する。話の種に東大の中のフレンチレストラン ルヴェ ソンヴェール駒場http://www.madoi-co.com/food/leversonverre/komaba.htmlを予約しようとしたら 一月後まで予約でいっぱいと言う 東大も商売が上手だ。
しょうがないので 下北沢のフレンチに予約、食べ終わったら井の頭線に乗り日本民芸館に行くことにした。
駒場東大前の西口でおりて、静かな住宅街を4,5分歩いて旧前田侯爵邸である駒場公園の隣に民藝館はある。渋谷まですぐのこんな立地にこんな静かで趣のある建物があるとは嬉しい発見だった。HPからパクるが
柳宗悦の生涯 YANAGI SOETSU (MUNEYOSHI)
柳 宗悦 (1889-1961)
現在の東京都港区に柳楢悦の三男として生まれる。父楢悦は海軍少将で、和算家としても知られていた。母勝子は嘉納治五郎(教育家で講道館柔道の創始者)の姉である。1910(明治43)年、学習院高等科在学中に、文芸雑誌『白樺』の創刊に参加。1913(大正2)年に、東京帝国大学哲学科を卒業、哲学・宗教の研究と同時に、芸術にも深い関心を持つようになる。朝鮮陶磁器の美しさに魅了された柳は、1916(大正5)年以降、たびたび朝鮮半島へ旅し、朝鮮の人々に限りない敬愛の心を寄せる。一方、次第に無名の職人が作る、民衆の日常品の美に注目していった柳は、バーナード・リーチ、富本憲吉、濱田庄司、河井次郎らとの親交の中で、新しい美の思想を確立していった。1925(大正14)年には、無名の職人たちが作った民衆的工芸品の美を称揚するために、河井・濱田と「民藝」の新語を作り、翌年には、「日本民藝美術館設立趣意書」を発表
パクリ 終わり
要するに明治の文人で 民衆的工芸品=民藝という言葉を創設した。そして自らの美的センスで あらゆる分野の民藝品を収集して、こちらの民藝館を立ち上げてそこに展示した人だ。
民藝館は1、2階のゆったりした建物で、そこに並べられた 日本各地の品々。画、陶磁器、着物、道具類など。他には朝鮮の陶器やイギリスの物も混じっている。
一言で言うと その品々は「癒し系」であった。先日プラド展を見て あまりの濃密さに少々鑑賞酔いをしてしまったが、こちらの品々は 本当に温かみがあり、親しみのもてるものであった。やはり生活に溶け込んでいて、かつ美しいものというのは見ていてほっとするものだなあと感じた。
また、昔の日本各地の品々の精巧な手仕事に細やかな日本人の精神性を感じた。こういう伝統的な工芸の技はどれくらい今の世に残っているのだろうか?少々不安になる。
しかし、知的でセンスある男が本気になって蒐集に走ると すごいもんが集まるんだなあ って つくづく思った。蒐集って言うのはやっぱり男の領域だなあ。
私だけだったら知らずに多分足を運ぶことはなかったと思うから、行きたいって言ったおばさまに感謝である。
入館料1000円。ゆったりした午後を過ごすにはお勧めなスポットだと思う。デートらしい若いカップルも何組かいた。こんな所に案内されたら、相手を見直すことであろう。
この集まりでは 私が一番年下なので、局からパシリに成り下がってしまう。
今回も母くらいの年齢のおばさまが
「局さん NHKの美術手帖で柳宗悦の特集やってたの。私あそこに行きたいので場所調べといてくださる?確か駒込って行ってたわよ」
と言うので へいへいとネットで調べる私。駒込でなく駒場じゃん。とブツブツ言いながら、近くでランチの場所も確保する。話の種に東大の中のフレンチレストラン ルヴェ ソンヴェール駒場http://www.madoi-co.com/food/leversonverre/komaba.htmlを予約しようとしたら 一月後まで予約でいっぱいと言う 東大も商売が上手だ。
しょうがないので 下北沢のフレンチに予約、食べ終わったら井の頭線に乗り日本民芸館に行くことにした。
駒場東大前の西口でおりて、静かな住宅街を4,5分歩いて旧前田侯爵邸である駒場公園の隣に民藝館はある。渋谷まですぐのこんな立地にこんな静かで趣のある建物があるとは嬉しい発見だった。HPからパクるが
柳宗悦の生涯 YANAGI SOETSU (MUNEYOSHI)
柳 宗悦 (1889-1961)
現在の東京都港区に柳楢悦の三男として生まれる。父楢悦は海軍少将で、和算家としても知られていた。母勝子は嘉納治五郎(教育家で講道館柔道の創始者)の姉である。1910(明治43)年、学習院高等科在学中に、文芸雑誌『白樺』の創刊に参加。1913(大正2)年に、東京帝国大学哲学科を卒業、哲学・宗教の研究と同時に、芸術にも深い関心を持つようになる。朝鮮陶磁器の美しさに魅了された柳は、1916(大正5)年以降、たびたび朝鮮半島へ旅し、朝鮮の人々に限りない敬愛の心を寄せる。一方、次第に無名の職人が作る、民衆の日常品の美に注目していった柳は、バーナード・リーチ、富本憲吉、濱田庄司、河井次郎らとの親交の中で、新しい美の思想を確立していった。1925(大正14)年には、無名の職人たちが作った民衆的工芸品の美を称揚するために、河井・濱田と「民藝」の新語を作り、翌年には、「日本民藝美術館設立趣意書」を発表
パクリ 終わり
要するに明治の文人で 民衆的工芸品=民藝という言葉を創設した。そして自らの美的センスで あらゆる分野の民藝品を収集して、こちらの民藝館を立ち上げてそこに展示した人だ。
民藝館は1、2階のゆったりした建物で、そこに並べられた 日本各地の品々。画、陶磁器、着物、道具類など。他には朝鮮の陶器やイギリスの物も混じっている。
一言で言うと その品々は「癒し系」であった。先日プラド展を見て あまりの濃密さに少々鑑賞酔いをしてしまったが、こちらの品々は 本当に温かみがあり、親しみのもてるものであった。やはり生活に溶け込んでいて、かつ美しいものというのは見ていてほっとするものだなあと感じた。
また、昔の日本各地の品々の精巧な手仕事に細やかな日本人の精神性を感じた。こういう伝統的な工芸の技はどれくらい今の世に残っているのだろうか?少々不安になる。
しかし、知的でセンスある男が本気になって蒐集に走ると すごいもんが集まるんだなあ って つくづく思った。蒐集って言うのはやっぱり男の領域だなあ。
私だけだったら知らずに多分足を運ぶことはなかったと思うから、行きたいって言ったおばさまに感謝である。
入館料1000円。ゆったりした午後を過ごすにはお勧めなスポットだと思う。デートらしい若いカップルも何組かいた。こんな所に案内されたら、相手を見直すことであろう。