局の道楽日記

食道楽、着道楽、読書道楽  etc
生活色々を楽しんで暮らしている日々の記録です

母を送って一週間

2024-02-02 17:10:41 | 家族あれこれ(犬も含めて)
その連絡は25日の早朝4時ちょっと前だった。
弟から母の容態が悪化した。血圧が低下していて危ない状態、俺は今から病院に行く・・・と
覚悟はしていたが そうか・・・ ついに来たか・・・
オットは職場近くに泊まりで一人だったので、実家に行って何日か泊まれる支度と少し迷いながらも喪服1セットもトランクに入れた。犬の食事やシート類やリードも入れてぐっすり寝ている犬を助手席に載せて実家へと急いだ。
今思うと、ちょうど私のコロナ罹患と隔離されるべき期間開けまで待っててくれたんだな~



冬の朝の夜明けは遅い。
西北に向かう前方にはまだ中空に満月に近い月があった。



その時間の都内は空いていて、高速もしばらくすると車は商業の大型のトラックばかりで、その中を追い越し車線で130kmくらいでぶっ飛ばした。
「間に合いたい」との一心だった。



高速を降りることには前方に地平に沈みゆく月が見えて、バックミラーには桜色にうっすらと染まる明けて行く空があった。

後でムスメが言ってたのだけど、ちょうどその夜孫④の授乳に起きた時に空が明るいのに驚いて月が煌々と照っているのを見て、なぜかバーバを思い出したんだよ と・・・
母娘孫娘 女三代。 母の逝く日の月に思いを馳せたのはやはり血脈のなせることだったのかと思った。

高速から降りて弟に電話したら、まだ息はあるというのでちょっとほっとして、コンビニで犬のために水と紙容器を買った。
結局その日は半日以上助手席に居続けた愛犬。冬の暖かい日だったので車に乗せておいて安全でちょうど良い温度だった。
途中駐車場を一回りの散歩を何度かしたけどその時に排泄を済ませて後は吠えもしないで寝ていてくれた空気を読む良い子だった。

そしてもう意識が戻らない母の枕元のモニターの血圧と呼吸と心電図を見続ける時間が過ぎた。
途中でオットが駆けつけてくれて、半日後に三人で母を見送ることが出来た。親の死に目に会えたって事はありがたいことだなあと今も思う。悔やむ材料を一つ軽減してくれるから・・・
心臓マッサージもカウンターショックも辞退していたので、静かで穏やかな最期だった。



その日の夕刻の満月・・・
母は明るい人だったが「太陽」じゃなかった。人前に出て目立とうというタイプではなくて、古き昭和の専業主婦でオットを支える立場を貫いていた。
しかしどこに居てもそれなりに目立って華やかだった様は夜空に輝く月タイプではなかったか・・・




小学校の授業参観の時に周りの友達から「綺麗なお母さん」と言われるのが子供心に嬉しかった。
この頃は今思えば口やかましい明治生まれの祖父母も同居していて 彼らにしっかり仕えて自由な時間もなかったはずなのに、家事は完璧、いまだに母の味が再現できた時は成功したなと感じるほどの料理上手。ワタシと弟への教育環境にも気を配ってくれたのは感謝しかない。

義両親の介護をして見送った後は、海外や国内旅行や趣味の時間も増えて





茶道や仕舞を楽しんでいた。仕舞は「職分」という資格まで取っていた。
東京の能楽堂でも舞ったはずなのに私には知らせず、ついぞ母の舞を見たことがないのがワタシの後悔の一つではある。




おしゃれだった母と買い物にはよく行った。Ashidaのスーツなどがよく似合った。




金婚式の記念写真。後期高齢者のわりに元気で凛としていた。この下の写真を遺影に選んだ。

この後認知症になった父と自分も肝臓がんになって健康不安から夫婦で介護施設に入居した。癌はその頃の先端医療の重粒子治療で克服できた。
この施設は建築士Nちゃんのお母さんも(その後お父さんも)入居しており、はからずも施設内で家族くるみの交流ができた。
Nちゃんのお母さんは脳梗塞後の後遺症で片麻痺があって車いすで言葉も不自由だったが、母はよく彼女の車いすを押したり、なんとなくの話し相手になったりでNちゃんに感謝されていた。



認知症の父の我儘に嫌気がさした時は部屋の外の窓辺でよく本を読んでたらしい。
これはNちゃんが「局ちゃんママの読書姿があまりにも絵になってたからさ~」といって送ってきてくれた写真。
母がここで読書していると夫婦部屋の階でそこにいた爺さんたちがわらわらと寄ってきて本が読めないのよとよく「モテ自慢」をしていた。
コロナ前まではそんなこんなで結構施設生活も楽しんでいたんだけどね。
このブログでも何度か書いたけど、コロナ禍での施設内行事はすべて中止で一時は部屋からも出られず、面会不能 初期の頃にクラスターとコロナ死が出てしまったゆえの神経質すぎる施設の対応で母が変わってしまったのは痛恨である。

葬儀は30日だった。
母を安置してあった葬儀会社の施設に私も泊まっていたが、その間に親友AとAの弟(ワタシの弟と同窓生)とNちゃんも駆けつけてきた。二人とも家族ぐるみの付き合い。特にAのお母さんと2母娘で旅行や観劇にもちょくちょく行っていたので、A母の落ち込みも大変だったそうだ。



納棺後に安置した所に父も施設の職員に連れられてお別れに来た。
母の死をわかっているのかいないのか分からないが 「何で死んだの」と三回くらい聞いた。



地方新聞に訃報も載せず、親戚にも殆ど知らせずにホントに内内だけで送った葬儀。



義母の葬儀(まだ三か月前ですよ!)を参考にして、とにかく祭壇は花いっぱいに、花も仏っぽくない華やかなものでと



顔周りを胡蝶蘭とカトレアで飾り、母の好きだった食べ物は?と葬儀屋さんに聞かれたので「お寿司かなあ コロナ後はとにかく生ものが施設で差し入れさえできなかったのが残念でした」と告げたら、お棺に握りずしも入れてくれた。

お骨を拾う時に、孫①がなぜか私の前に立って、私がぎゅっと抱きしめるのをそのまま受け入れて、彼も後ろ手をワタシに回して寄り添ってくれた。

まだ施設の部屋などの後始末は多々あるが、一旦東京に戻った。
なんだかとっても疲れているのだけど、疲れと悲しみと虚しさって感情は似ていて、自分の心がどこにあるのか自分でもわからない状態です。


コメント (24)
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