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ウリパパの日記

自由気ままに・・・

54年ぶりの滋賀旅行(4) 2024.8.14-15 比叡山延暦寺をめぐり、米原、東京へ

2024-08-19 18:09:03 | 旅行

先週の古新聞になってしまいました。滋賀旅行2日目の続きです。早朝散策と朝食後に近江八幡のホテルを9時前に出発。琵琶湖東岸に沿って南下して琵琶湖大橋有料道路を渡り、仰木ゲートから奥比叡ドライブウエイを上ります。

 

琵琶湖展望台から琵琶湖を見下ろします。正面は渡ってきた琵琶湖大橋。逆光のため霞んでいます。

 

続いて、比叡山延暦寺の横川に到着。ここに車を停めて、横川中堂に参拝します。比叡山延暦寺の山内は3つの地域に分かれていており、東を「東塔」、西を「西塔」、北を「横川」と区分されています。これを三塔と言い、東塔・西塔・横川にそれぞれ中心となる仏堂「本堂」があります。

 

まずは比叡山延暦寺の説明から。延暦7年(788年)に伝教大師最澄上人が開創した1,200年以上の歴史を持つ天台宗の総本山です。国宝的人材育成の学問と修行の道場として、法然(浄土宗)・親鸞(浄土真宗)・栄西(臨済宗)・道元(曹洞宗)・日蓮(日蓮宗)などの日本仏教各宗各派の名僧を多数輩出。日本仏教の母山と呼ばれています。さらにその歴史と伝統が高い評価を受け、ユネスコ世界文化遺産に認定。滋賀・京都を代表する地です。

ここ横川には親鸞、道元、日蓮が修行に入ったと言われています。

 

横川中堂に到着

 

嘉祥元年(848年)横川をひらかれた慈覚大師(円仁)が創建。昭和17年に雷火で焼失しましたが、本尊の聖観音は災火を免れ、昭和46年に現在の姿に復元されています。御本尊として慈覚大師円仁作と伝えられる聖観音菩薩が祀られています。

横川地区は横川中堂のみ見学して、先を急ぎます。

 

比叡山峰道レストラン駐車場に居られる伝教大師最澄上人様のご尊像。高さ約12mのご尊像は、比叡山を開かれて1200年目の1987年に建立されました。毎年3月13日には天台座主猊下を大導師に仰ぎ比叡の大護摩法要が執り行われるそうです。

 

比叡山峰道レストラン駐車場から見下ろす琵琶湖の眺望

 

 

続いて西塔を参拝します

 

まずは、にない堂へ。常行堂と法華堂という同じ形の二堂が渡り廊下でつながれているため、俗に「弁慶のにない堂」と呼ばれています。常行堂は阿弥陀経を、法華堂は法華経をそれぞれ読経し、修行する道場です。これは、法華と念仏が一体であるという比叡山の教えを表しており、お堂が渡り廊下でつながっている理由もそこにあるそうです。常行堂と法華堂ともに、中で修行中でした。

 

 

渡り廊下の東に繋がる重要文化財の法華堂

 

渡り廊下の西に繋がる重要文化財の常行堂

 

階段の先には荘厳な釈迦堂

 

手前の手水舎。ここの水は飲めるそうです。

 

正面の天法輪堂は西塔の中心をなすお堂で、老杉に囲まれて風格があります。ご本尊に釈迦如来を祀ることから釈迦堂の名で親しまれています。本堂に入り、釈迦如来を見学してきました。

 

信長の焼討ち後、豊臣秀吉が大津の園城寺(三井寺)の金堂を山上に移築したものです。延暦寺の現存する最古のお堂で、天台建築様式の代表とされる南北朝時代の建物です。

 

釈迦堂左の階段を登った先にある鐘堂。寛政3年 (1791年)、84世三誉愍海上人時代の建築。梵鐘は江戸時代のものです。

 

続いて、延暦寺山内では最も清浄荘厳な聖域へ向かいます

 

5分ほど歩いて浄土院に到着。ここは比叡山を開かれた伝教大師最澄上人の御廟です。

 

まずは拝殿へ向かいます

 

浄土院を記された軒下の扁額

 

浄土院の説明です

 

拝殿の裏には唐門と伝教大師御廟。とても荘厳な雰囲気に包まれます。ここは聖域中の聖域です。御廟玉垣の辺りには沙羅双樹と菩提樹が植えられているそうです。

 

伝教大師御廟の左手にも歴史のありそうなった建物

 

屋根の上には鳳凰の装飾?

釈迦堂と浄土院を見学後、駐車場に戻ります。続いて東塔へ向かいます。

 

延暦寺の案内図。横川、西塔、東塔と巡ってきました。

東塔は延暦寺発祥の地であり、根本中堂を中心とする区域です。

まずは大講堂。昭和39年(1964年)に山麓坂本の讃仏堂を移築したものです。本尊は大日如来で、その左右には比叡山で修行した各宗派の宗祖の木像が祀られています。

 

続いて鐘楼。一般観光客も鐘をつくことができます。

 

続いて根本中堂へ向かいます。ここは延暦寺の総本堂。本尊は薬師如来です。延暦寺を開いた伝教大師最澄が延暦7年(788年)に創建した一乗止観院が元であり、現在の姿は徳川家光公の命で寛永19年(1642年)に竣工したものです。

 

建物は国宝に指定されています。廻廊は国重要文化財に指定されています。残念ながら、根本中堂では2016年から約10年に及ぶ改修工事が行われています。

 

工事期間中も参拝可能なので、中を見学します。ご本尊の薬師如来の前には千二百年間灯り続けている「不滅の法灯」も安置されていました。

 

改修工事の様子を工事用の階段の上から見ることができます。

 

 

根本中堂前の高い石段を登った場所にある文珠楼。延暦寺の山門にあたり、比叡山の総門の役目を果たす楼門です。慈覚大師円仁が中国五台山の文殊菩薩堂に倣って創建。寛文8年(1668年)に焼けてしまい、その後再建されたものです。

 

文珠楼の前から、改修工事中の根本中堂を見下ろします。

 

続いて東塔と阿弥陀塔を訪れます

 

最後に戒壇院を見学。ここは天台宗の僧侶が受戒する重要なお堂で、天長5年(828年)に創建され、現在見られる建築は延宝6年(1678年)に再建されたものです。 

 

東塔の見学を終えてから近くの国宝殿を見学します。

 

展示内容一覧です。延暦寺に伝来する数多くの仏像・仏画・書跡等の文化財が保管されています。重要文化財に指定されているものも展示されていました。

 

帰りに山頂付近からの景色を眺めるため、ガーデンミュージアム比叡の展望台に寄り道。一瞬京都府に足を踏み入れます。大津市と近江大橋を見下ろします。

 

西側は京都方面

 

うっすら見える川は鴨川でしょうか。自信ありません・・・

山頂からの下りは比叡山ドライブウエイを下り、西大津バイバスで名神高速道路の京都東ICへ。高速道路で米原ICまで北上し、14時20分に米原駅に戻ってきました。

 

米原駅東口に米原湊跡の記念碑と船のモニュメントがありました。米原湊はここ米原駅付近にあり、1603年(慶長8年)、北村源十郎が琵琶湖と入江内湖を結び、堀を開削して湊を開いたそうです。美濃方面と大津湊の中継や、大阪と北陸を結ぶ湖上交通の中継の湊で、宿場として栄えたのです、と説明に書かれていました。米原は湖上交通の要所だったのですね。

 

米原駅50周年は10年前のこと。初代新幹線のデザイン(0系)が懐かしい。54年前に米原を訪れた時は、この0系新幹線に乗った記憶があります。そして、ここにも「とびだしとび太」

 

木彫でみる米原風土記。見事な木彫り彫刻です。

帰りの新幹線は15時33分発のこだま736号。一週間前にはこれしか指定が取れませんでした。しかも初めての新幹線グリーン車です。

 

駅の売店で見かけました! ずっと気になっていた「とびだしとび太」の説明です。クレヨンしんちゃんに似ているのですよね。全く関係が無さそうで、1973年の6月に地元の看板製作会社で製作されて当時の八日町市に設置されたのが始まりとされています。

15時頃から雷雲が通過して雨が降り出しましたが、雨に濡れることも無く、すっきりした気分でグリーン車に乗り込みます。初めて乗る新幹線のグリーン車は快適です。途中駅で合計20本近い「のぞみ」「ひかり」に抜かされます。

 

富士川駅から三島駅にかけて、一瞬雲が切れて富士山の山頂が姿を現しました。

 

宝永山が姿を見せました

 

手前は東名高速道路かな?

ほぼ定刻に東京駅に到着。東京駅で軽く夕食を食べて、帰りは中央線で高尾駅へ。無事に戻ってきました。翌日は台風接近の影響で東海道新幹線は終日、東京-名古屋間で運休が決まっていました。一日違いで危ういところでした。

 

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54年ぶりの滋賀旅行(3) 2024.8.14-15 彦根と近江八幡の街めぐり

2024-08-18 09:07:35 | 旅行

54年ぶりの滋賀県旅行初日は長浜から彦根に移動して彦根城を見学。その後、近江八幡のホテルへ南下して、翌朝は近江八幡の街を散策しました。

彦根城の帰りに寄りたい場所があるので、京橋口から夢京橋キャッスルロードを歩きます。

 

 

彦根城の京橋からすぐ先は、白壁と黒格子の町屋風に統一された街並みが続きます

 

江戸時代の城下町をイメージした古き時代と新しい時代の薫り漂う「OLD NEW TOWN」 

 

和菓子、洋菓子、地元の商品を扱うお店が軒を並べます

 

茶房源三郎で休憩。濃厚な抹茶を使用した「もこもこ源三郎ソフト」を味わいました。そして、お茶のお土産を大量に購入・・・

 

夢京橋キャッスルロードの幟にも「ひこにゃん」が登場

 

「とびだしとび太」も負けてはいません(笑)

 

目的地の宗安寺に到着

 

御手水

 

まずは参拝します

 

参拝の目的は永代供養等

 

ここにもお参りします

 

名前がありました。母方の祖父母と一番上の伯母です。祖父は海軍少将だったようですが、子供の時に亡くなっているので記憶には残っていないのです。かなり前に、先祖代々のお墓から永代供養塔に遺骨を移したそうです。なお父方の先祖は福島県からお墓を八王子の上川霊園に移して、地元で面倒を見ています。

宗安寺のお参りを終わり、駅の駐車場へ戻ります。

 

近江牛の店頭では「おにくじ」。運勢占いだけでなく、おすすめの肉の部位も紹介してくれるみたいです。

 

ひこにゃんのお店

 

彦根見学を終わり、近江八幡へ車で移動です。近江八幡までは彦根から車で40分程度の距離です。

 

ホテルの部屋に到着したのは19時近くになっていました。琵琶湖の向こうの比良山に夕日が沈み、赤く空が染まっていました。

 

夕食はホテルのレストラン(中華)。最後に近江牛が出てきました。

 

翌朝、朝食バイキングまで時間があるので、近江八幡の街まで歩いて散策に出かけます。昨夜は暗くて気づかなかったオシャレな街灯。

 

北へ向かうぶーめらん通りの街灯

 

開業150年周年を迎えた八幡小学校

 

ここにも「とびだしとび太」が・・・

 

街中を散策中に見つけた近江八幡教会。美しい洋風建築です。1907年にウイリアム・メレル・ヴォーリズによって建てられた教会が元になっているが、現在のものは火災の後の再建です。

ウィリアム・メレル・ヴォーリズについて簡単に紹介しておきます(近江八幡観光物産協会のHPより引用します)

ヴォーリズは明治38年に八幡商業高等学校の英語教師として来日し、昭和39年に83歳の生涯を終えるまで彼は近江八幡市に留まり、キリスト教の伝道とその主義に基づく社会教育、出版、医療、学校教育などの社会貢献活動を続けました。そしてこれらの事業を経済的に支えるべく多くの人々と力を合わせ、建築設計会社やメンソレータム(現メンターム)で知られる製薬会社などの企業活動を展開していきました。(引用終わり)

 

アンドリュース記念館が隣接しています。ヴォーリズの大学時代の親友であったハーバート・アンドリュース氏を記念して、1907年(明治40年)に建てられたヴォーリズ建築最初の建物。当初建物があった位置から12m東方向のこの地に古い資材を再利用して移築されました。

 

 

ここまで来ると八幡山はすぐそこです。麓まで歩いてみることにします。

 

仲屋町を歩きます。八幡城形成時に仲買商人の町として栄え、仲買を意味する「すあい(仲屋)」に因んで名づけられました。

 

これは酒屋でしょうか

 

近江牛専門店のようです

 

日牟禮八幡宮の鳥居に到着。この先が八幡山城跡となります。

振り返ると、立派な建物。白雲館と呼ばれています。

 

白雲館の説明です。明治10年に八幡東小学校として建築され、平成6年に建築当時の姿に復元されました。朝早い時間なので、中に入場できません。

 

ヴォーリスと少女の像

 

八幡堀を見学します

 

八幡堀は戦国時代に豊臣秀次が八幡山城を築城した際に、市街地と琵琶湖を連結するために造られた人工水路で全長6kmに及びます。軍事的な役割と物流の商業的役割を兼ねています。

 

時代劇や映画のロケ地としても知られています。とても風情あります。

 

新町通りを歩きます。古い町並みが広がっています。江戸時代末期から明治にかけて建築された商家が保存されています。

 

重要文化財に指定されている旧西川家住宅。西川利右衛門家は約300年にわたり活躍した、近江八幡を代表する豪商の一人です。

 

森五郎兵衛邸。縦格子が印象的です。

 

ここ近江八幡は、近江商人のふるさとです

 

旧伴家住宅。江戸に出た八幡商人伴荘右衛門家の本宅で、現在の建物は7代目伴荘右衛門が文政10年 (1827) から天保11年 (1840) の13年をかけて建築したもの。明治時代になって当時の八幡町に譲渡されてから小学校・役場・女学校と変遷しました。

朝早い時間なので、歴史ある建物の中に入って見学することはできませんでした。でも風情と情緒漂う近江商人の町並みやヴォーリズ建築などを十分に楽しむことができました。また2km歩いてホテルに戻ると朝食が慌ただしくなるので、帰りはバスで近江八幡駅まで直行。

 

近江八幡駅北口ロータリーで下車

 

ホテルに戻り、見晴らしの良い9階のレストランで朝食(バイキング)としました。レストランからの眺望がデザインされたランチョンマット紙が嬉しいですね。正面の八幡山麓の城下町まで片道2km以上歩いて散策してきたので、お腹が空いてしまいました。

滋賀旅行の2日目は、近江八幡の城下町散策に続いて比叡山延暦寺の参拝です。現在根本中堂は改装工事中で全貌を見ることができませんが、せっかくレンタカーを借りているので、比叡山の三か所をまわることにします(続く)

 

 

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54年ぶりの滋賀旅行(2) 2024.8.14-15 彦根城見学

2024-08-17 08:36:29 | 旅行

長浜城歴史博物館で特別展を見学していたらお昼を過ぎてしまいました。黒壁スクエアなどの長浜市旧市街を散策する時間が無くなってしまったので、1日目の目的地である彦根城へ向かいます。長浜から彦根までは12km程度、30分で彦根駅前に到着。駅前の駐車場に車を停めて、まずは近くのお食事処「しる万」で昼食としました。

 

肉うどんと、近江牛のミニ丼のセットを注文。関西風の白だしで食べるうどんは久しぶり。

 

おしぼりには彦根城とひこにゃんのデザイン(笑)

 

彦根駅前ロータリーには井伊直政公の銅像。直政は徳川家康の重臣で彦根藩の初代藩主でもありました。

 

彦根駅から、駅前お城通りを西へ500mほど歩いて彦根城へ向かいます。

 

ひこにゃんのバス発見!

ひこにゃんは2006年の4月13日生まれ。国宝・彦根城築城400年祭を盛り上げるために、彦根藩主・井伊直孝公を雷雨から救ったと伝えられる招き猫と、井伊軍団のシンボルである赤備えの兜がモチーフのキャラクターです。

 

石材店にも。。。すっかり定着しています

 

ちょうど旧盆で「みたままつり」を開催中の滋賀縣護國神社にお参りします。夜には提灯が点灯されることでしょう。

 

佐和口多聞櫓へと向かう通りの松並木通り右側に井伊直弼の歌碑が建っていました

 

彦根城の入口の一つである佐和口にやってきました。南の京橋口、西の船町口、北の長橋口とともに彦根城の4つの門のひとつで、表門に通じる入口として、大手門がある京橋口とともに彦根城の重要な城門のひとつでした。佐和口多聞櫓は、その佐和口を守るための防御の要でした。

 

彦根城博物館入口には、ひこにゃんの案内。その横には滋賀のご当地キャラクタでもある「とびだしとび太」

 

彦根城めざして階段を登ります

 

橋の下をくぐり階段をさらに登り天秤櫓にやってきました。この天秤櫓が築かれたのは、築城開始から数年後のことで、長浜城の大手門を移築したものであると言われています。嘉永7年(1854年)に中央部から西側の石垣を足元から積み替える大修理があり。東半分と西半分で石の積み方が異なっています。

 

西半分は牛蒡積み。自然石をそのまま用い、細長い石を奥に伸びるように並べていく工法で造られています。

 

東半分は落し積み。石と石の接合面を加工して積み上げる造り方で、下方に落とし込むように積んでいくことから落とし積みと呼ばれています。

 

天秤櫓の中も見学できます。これは、井伊家の旗印である井桁。

 

彦根城の天守を目前にした本丸の表口を固める櫓門である太鼓門櫓。築城時の他の城から移築されてきたそうです。

 

ようやく彦根城の天守に到着。現存天守のひとつであり、国宝にも指定されています。1604年(慶長9年)に徳川家康の命令によって築城が決まり、豊臣方の動きを見張る重要拠点として工事は幕府主導で急ピッチで進められます。佐和山城をはじめとする近隣の城や寺院から使える建物や石垣を運び再利用し、天守を含む主要な部分は、1607年(慶長12年)には完成します。その後「大坂の陣」で中断され、結局、約20年を費やして 1622年(元和8年)に完成を迎えました。

 

天守は3階3重と規模としては小ぶりですが、屋根には「切妻破風」「入母屋破風」「唐破風」といったさまざまな破風を配しています。
また、2階と3階には「花頭窓(かとうまど)」、3階には「廻縁(まわりえん)」を巡らせるなど、非常に優雅な外観をしています。

以下に彦根城の装飾の説明を、「彦根の観光ガイド ときどき滋賀 」より引用しておきます。

 

 

引用終わります。

 

ひこにゃんと彦根城

 

天守入場待ちの列に並びます。35℃に迫る猛暑の中、暑さ対策としてミストが設置されていました。

 

令和5年12月から来年の1月にかけて彦根城は耐震工事が行われています。夏休みの期間中は工事を中断して天守への入場が可能となっているのです。

さっそく中へ入場します。1層から2層にかけては62度、2層から3層間は60度もある急な階段を上ります。見学者向けに手摺が付いていて、上り下りとルートが分かれているためそれほど危険ではありませんが、中は大渋滞でした。

 

鉄砲狭間と矢狭間の形状の違いを図示した隠狭間の説明。三角窓は鉄砲狭間です。

 

天守閣最上部の梁。複雑に入り組んでいます。天守を支える1層目の梁は補強工事中のため見ることができませんでした。

 

 

国宝指定書が展示されていました

 

3階からの見晴らし。鳥避けの金網が邪魔ですね。

 

2か所で、金網が取り除かれたフォトスポットがありました。眼下に広がる彦根市街。その先には荒神山。

 

反対側の眼下には玄宮園、その先に平和堂HATOスタジアムと競技場。正面に伊吹山を遠望します。平和堂HATOスタジアムは来年滋賀県で開催される国スポ(旧国体)の会場になるそうです。

 

伊吹山をズーム

 

天守の見学を終わりました

 

近くの着見台(着見櫓跡)からの眺望。天守からとほぼ同じアングルです。

 

現存12天守の一覧が掲示されていました。その中で国宝に指定されているのは、彦根城の他には姫路城、犬山城、松本城、松江城の計5つです。

 

最後に天守の鯱をズームして戻ります

 

途中、上りには気づかなった鐘楼がありました。「お山の鐘」として市民に親しまれている彦根城の時報鐘です。朝から3時間おきに、6時、9時、12時、15時および18時の1日に5回、城下に鳴り響く鐘の音は環境庁の「日本の音風景百選」にも選定されているそうです。ちょうど15時の鐘の音を遠くで聞きました。

 

彦根城博物館を見学してから玄宮園へ向かう途中の公園内に井伊直弼大老像が建てられていました

 

 

玄宮園を見学します。江戸時代前期に作庭された大規模な池泉回遊式庭園です。正面に彦根城を見上げます。

 

国宝、彦根城をズーム

 

隣接する楽々園。江戸時代には「槻御殿」などの名前で呼ばれていました。大老井伊直弼は1815年10月29日にここで生まれました。

彦根城の見学を終えたので、もう一か所訪れておきたい場所があります。夢京橋キャッスルロードへ向かいます(続く)

 

 

 

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54年ぶりの滋賀旅行(1) 2024.8.14-15 米原から長浜へ

2024-08-16 10:58:32 | 旅行

夏休みを利用して8月14日から15日にかけて滋賀県まで旅行に出かけてきました。滋賀県を旅行で訪れるのは実に54年ぶりのことです。前回は大阪万博の前にお墓参りを兼ねて立ち寄ったのです。今回は墓参ではなくて、彦根城と琵琶湖を見たいという奥さんのリクエストに応えて1週間前に企画したミニ旅行です。とはいっても旅行代理店経由で全てスマホで予約完了。楽になったものです。

 

出発当日の8月14日の朝も八王子では熱帯夜に明けました。久しぶりに自宅から見る日の出です。

 

眩しくないのでコンデジでズーム。大きな黒点がはっきりと見えています。太陽フレアによる磁気嵐が発生して、中緯度帯でもオーロラとペルセウス座流星群を同時に観察できた地域もあったようです。

 

8時33分発のひかり635号で東京駅から米原へ向かいます。車窓から見る富士山は雲の中でしたが、関ヶ原付近から伊吹山を間近に見ることができました。

 

ほぼ定刻通りに米原駅西口に到着

 

いきなり目に飛びこんできたのは新幹線格安チケットの自動販売機。滋賀県で見かけたJRのどの駅にもありました。

 

レンタカーを借りて最初に向かったのは長浜城跡。今は本丸跡だけが残っています。

 

長浜城跡の説明。ボロボロでほとんど読めません(笑)

長浜城は戦国時代末期に豊臣秀吉が城主として過ごしました。江戸時代前期に廃城になってしまい、遺構は彦根城や大通寺に移築されました。その跡には、僅かな石垣と井戸だけが残されています。

 

昭和58年に安土桃山時代の城郭を模して「昭和新城」として復元された歴史博物館です。見晴らしが良さそうなので内部を見学することにしました。

 

 

館内では特別展「北政所と秀吉 高台寺の美と文化」を開催中でした。

 

歴史好きにはオススメの特別展です。本展覧会についてHPから引用しておきます。

令和6年(2024)は、北政所が寛永元年(1624)に没してから400年を迎えます。現在、北政所と秀吉ゆかりの地として知られる京都・高台寺では、「北政所ねね様四百年遠忌記念事業」を展開していることから、本展では、高台寺の特別協力を得て、湖北・長浜の地で同寺の至宝の数々を紹介します。あわせて湖北・長浜に伝来する北政所や秀吉、彼女をとりまく人々ゆかりの資料にも注目します。
 この展覧会を通して、豊臣の世から徳川の世へと移り変わる、激動の時代を感じとっていただくとともに、強くしなやかに生きた北政所の半生から今を生きるヒントを見つける機会としていただければ幸いです。(引用終わり)

 

特別展と常設展を見学してから最上階の展望台へ向かいます。戦国合戦のパノラマの世界が広がります。

 

正面には標高1377mの伊吹山。その右奥が関ヶ原となります。

 

伊吹山をズーム

 

南南東には霊仙山

 

琵琶湖の南には佐和山城、彦根城方面

 

肉眼でも微かに見えた彦根城をズーム。午後からこちらへ向かいます。

 

その西には安土城址と沖島。安土城址の向こう側の近江八幡が宿泊場所となります。

 

琵琶湖の西岸の先にはうっすらと比良山の山並み

 

琵琶湖の北岸方面の眺望。正面に竹生島が見えます。

 

煙突の右奥に見える円錐状の山は山本山。その奥が賎ケ岳合戦場です。

 

北側には虎御前山と小谷城址方面。右奥は金糞岳方面となります。

 

分かりにくいので、案内版を付けて撮影してみました

 

ぐるっと一回りして、長浜の街と伊吹山

予想以上に長浜城跡で時間を費やしてしまいました。目的の琵琶湖の眺めを楽しんだので、町の散策はあきらめて次の目的地である彦根へ向かいます(続きます)

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紅葉の奥日光(3) 立木観音と日光二荒山神社 2019.11.1

2019-11-03 07:04:05 | 旅行

半月山から中禅寺湖に下り、二荒山神社へ向かう前に最初の駐車場で休憩。駐車場の近くに立木観音があるので見学してみることにしました。 

立木観音は別名で中禅寺と称するそうです。784年、日光開山「勝道上人」によって建立されましたお寺で、日光山輪王寺の別院となります。御本尊「十一面千手観世音菩薩」は勝道上人が中禅寺湖上に千手観音様をご覧になり、その姿を桂の立木に彫ったと伝えられています。

 

 

中禅寺の楼門です。仁王像が祀られています。

 

右側の「阿」は密釋金剛。

 

左側の「吽」は那羅述金剛。

 

本堂です。この中に十一面千手観世音菩薩が祀られています。

朝早いためか本堂内部に入ることができないようです。本堂の裏手に「五大堂」がありますが、そこへ上る階段は立ち入り禁止となっていました。

 

 

こちらは「波之利大黒天堂」。勝道上人が日光山を開いた時、中禅寺湖の波の上に現れた大黒天を祀っています。

他にも、身代わりのこぶや鐘楼など見学することができます。受付の方の説明によると、湯ノ湖の近くにある温泉寺も輪王寺の別院となっているそうです。ここでは温泉に入ることができるそうです。

続いて二荒山神社へ向かいます。

 

中禅寺湖の北岸に鎮座する神社。男体山の山頂にある二荒山神社奥宮と、日光市内にある二荒山本社の中間にあるので中宮祠と呼ばれています。さっそく階段を上ります。

 

中宮祠は男体山の麓にあります。暖かい一日であったためか、大勢の登山客が山頂を目指していました。

 

神門をくぐり拝殿へ向かいます。

 

拝殿です。

 

まずはここでお参りします。

 

神楽殿脇の紅葉。この鳥居をくぐった正面(写真の背後)に御神木のいちいの大木がありました。

 

 拝殿の裏側に鎮座する本殿です。重要文化財に指定されています。元禄14年(1701)造営と説明にありました。

 

 

鳥居と登拝門。鳥居は唐銅製明神造でこちらも重要文化財に指定されています。明和6年(1769)建立。基脚の蓮弁に神仏習合時代の名残を留めると説明に書かれています。登拝門は男体山へ上るための入口となります。閉山式後には閉じられてしまいます。

 

登拝門の脇には、大蛇の御神像と手振り祈願鈴。

大蛇の云われについては二荒山神社のHPより下記に引用します。

説明 日本昔話に「戦場ヶ原の伝説」があります。 むか~し、むかし、男体山の神が大蛇に変じ、赤城山の神がムカデに変じて領地争いを行ったといわれます。
赤城山のムカデに攻め寄られた時、弓の名手「猿丸」の加勢を受けて、男体山の大蛇はみごと赤城山の大ムカデを撃退し勝利しました。
戦いが行われた所を「戦場ヶ原」、血が流れた所を「赤沼」、勝負がついた所を「菖蒲ヶ浜」、勝利を祝い歌った所を「歌ヶ浜」、と言い奥日光の地名になっております。
負傷したムカデは退散して、弓矢を地面に刺したところ、湯が噴き出しその湯で傷を癒したので「老神温泉」と言われております。
大蛇を「オロチ」とも言いますが、「オ」は峰・「ロ」は助詞、「チ」は神霊を意味し、古代人は蛇のとぐろを巻いた姿が山に見えることから、オロチを山の神と称えたと言われます。
勝利した男体山の大蛇は「勝利」・「金運」の守護神とされます。
この由縁より黄金の大蛇にあらゆる願いを込め、特に金運がついて、ぴんぴん元気で過ごせます様に、祈りを込めて、愛称を「きんぴん大蛇」と名づけました。

引用終わり。手振り祈願鈴は、大蛇の神像に対して祈りを捧げるために使用します。

 

中宮祠の境内には七福神が祀られていました。これは恵比須神です。

今年9月の日光二荒山本社に続いて中宮祠のお参りも終わりました。残すところは男体山山頂にある二荒山神社奥宮です。身近にあって登っていない日本100名山の1つでもあるので、来年中には達成したいですね。

 

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大谷寺と平和観音 2019.9.6

2019-09-13 22:31:10 | 旅行

大谷資料館から歩いて10分、大谷寺に到着しました。大谷寺は御止山の洞窟の中に建てられています。ここには日本最古の石仏「大谷観音」が岩に彫刻されています。大谷寺は弘法大師の開山と伝えられている寺院で、坂東三十三観音霊場の第十九番札所。洞穴内に観音堂・脇堂を建立している洞穴寺院で、岩壁に彫られた千手観音・釈迦三尊・薬師三尊・阿弥陀三尊は「大谷磨崖仏」として国指定史跡・重要文化財の二重指定を受けています。

 

まずは立派な赤門と真っ赤な仁王像です。

 

向かって右側は阿形の仁王像。 

 

左側は吽形の仁王像です。

 

仁王門をくぐると正面に洞窟。この中にお寺が建立されています。

 

大谷寺の由来をHPから引用します。 その昔、この辺り一帯は大小の岩が屏風のように連なり、その中は広く平らに広がり大谷と呼ばれていました。岩下からは水が湧き出して川となりをのの中には毒蛇が住んでいて、時々毒水を流し出し、鳥獣虫魚がこれに触れると、たちまち死んでしまったため、ここを地獄谷と呼んでいました。人間がこの水に触れると病気になり、最悪の場合は死に至り、五穀は枯れ、草木もしぼみ、人々は苦しみ、この地を捨てようとしていました。  大同、弘仁(810年)の頃、弘法大師が東国巡錫の折この話を聞き、里人のうれいを除こうと毒蛇の谷に入って行きました。人々はこれを聞いて喜びました。十余日の後、谷から大師が出てきて、毒蛇を退治したと告げて立ち去って行きました。 人々が谷の奥に入り中の様子を見ると、高い岩山に光り輝く千手観音が彫ってありました。観音の光明は山谷を一面金色に変えました。人々は弘法大師の不思議な力に感謝し、大師の偉業を貴み観世音に帰依して仏教を信仰する者が増えました。これが大谷寺の始まりです。

 

洞窟内の中にある神秘的な寺院の中で岩壁に彫られた素晴らしい磨崖仏を見学してきました。撮影は禁止。代わりにパネルを紹介しておきます。

千手観音には千の手と千の目が有り、手のひらにも目があっていつも見守ってくれています。たくさんの手で宇宙にある全ての人々、生き物を救ってくださる有り難い観音様です。研究によると、最初は岩の面に直接彫刻した表面に赤い朱を塗り、粘土で細かな化粧を施し、更に漆を塗り、一番表には金箔が押され金色に輝いていました。バ―ミヤン石仏との共通点が見られることから、実際はアフガニスタンの僧侶が彫刻した日本のシルクロ―ドと考えられているそうです(HPより引用)

先手観音を祀る本堂を抜けると、脇堂の壁面に現れるのは釈迦三尊・薬師三尊・阿弥陀三尊。こちらも見事な石仏でした。

 

大谷寺を右に見て宝物館へ向かいます。大谷寺の洞窟に見られる遺跡からは、縄文人が生活した跡があり、併設された宝物館では、大谷寺から発掘された1万年以上前と推定される人骨が展示されていました。こちらも見学可能です。

 

さらに進むと右手に弁手池がありました。池の中央に弁財天が祀られています。そこには先ほど紹介の毒蛇が心を入れ替えて白蛇となってお仕えしているそうです。

 

弁天池に参拝します。左右に2匹の白蛇が祀られています。

 

こちらは池越しに見えた白蛇。

 

こちらはもう一匹の白蛇。

 

さらに奥へ進むと、このような神秘的な石像がありました。

バスの発車時刻まで残り30分となったので、大谷寺の南側にそびえる平和観音へ向かいます。

平和観音は、太平洋戦争の戦没者供養と世界平和を奇岩して大谷観音の御前立として彫刻されました。高さは26.83m(88尺8寸8分) あります。

 

昭和23年より東京芸術大学教授・飛田朝次郎氏が制作を手がけ、大谷の石工達が彫刻を始め昭和29年に完成。昭和31年に日光輪王寺門跡・菅原大僧正により開眼供養が行われました。

 

階段を上り、間近に見上げます。

 

こちらは大谷石の大岩壁。

 

天狗の投げ石です。

 

お土産屋さんの前には「無事カエル」の願いがこもった大谷石でつくられたカエルの置物が展示されていました。

大谷資料館、大谷寺、平和観音合わせて1時間30分ほどの見学でした。車で来れば、時間を気にせずもう少し周辺に足を延ばせたところですが、1時間に1本のバスの発車時刻に制約されてしまいます。大谷地区へは車で来るのがおすすめですね。

 

 

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大谷資料館の地下採掘場跡 2019.9.6

2019-09-12 20:39:54 | 旅行

午前中に日光市街地を見学後宇都宮駅へに戻り、大谷観光一日乗車券を購入。バス往復料金に大谷資料館、大谷寺の入場券・拝観券とをセットにしたお得なチケットです。8月に笠間市稲田の石切山脈を訪れた際、民放テレビ(BS)で石切山脈が紹介されるという情報を頂いたので早速見たところ(夏休み中)、栃木から茨城にかけての紀行番組の中で大谷資料館と大谷観音も紹介されていました。番組では宇都宮からすぐという印象でしたが・・・

 

宇都宮駅から東武宇都宮を経由してバスで約30分、大谷資料館前に到着しました。大谷石の採掘場跡が公開されている資料館に入ります。大谷石は宇都宮市大谷町付近一帯から採掘される流紋岩質角礫凝灰岩の総称です。宇都宮市の中心より北西約7Kmの大谷町付近に、東西約2Km、南北約4Kmにわたり、うすい緑色の凝灰岩として所々に露出していて、採掘区域は東西約3Km、南北約6Km及ぶそうです。大谷石の分布は、東西約8Km、南北約37Km、地下200m ~ 300mの深さにわたります。そして埋蔵量は10億トンと推定されています(大谷資料館HPより引用) 。  

 

さっそく階段を下り大谷石地下採掘場跡へ入場。まるで巨大な冷蔵庫の中の地下神殿です。

 

この地下採掘場跡は1919年(大正8年)から1986年(昭和61年)までの約70年をかけて大谷石を掘り出して出来た巨大な地下空間。広さは2万m2 (140m×150m)、深さ30m、最も深いところで60mにもなります。坑内の年平均気温は8℃前後。訪れた6日は残暑厳しく宇都宮では真夏日となりましたが、構内の温度計は12℃を指していました。2000m以上の山に登らなくても、ここへ来れば天然の涼しさを満喫できます。

 

石肌には手堀り時代のツルハシのあとが残っています。手堀り時代には、150Kgもある石を1本1本背負って採掘場から運び出していましたが、機械化後の現在では、モーター・ウインチにより、巻き上げられています。輸送方法も、筏、馬の背中、馬車、トロッコから、鉄道やトラックへと変わり、今ではほとんどトラック輸送が中心となっています。

 

こちらは機会堀りのあとです。

ところでこの採掘場跡は、戦争中は地下の秘密工場として、戦後は政府米の貯蔵庫として利用され、現在ではコンサートや美術展、演劇場、 地下の教会として、また写真や映画のスタジオとしても注目を集めているようです。

 

今年の12月には華道家假屋崎省吾の世界展華寿絢爛in大谷資料館が開催されます。

 

ドンペリが展示されていました。ドンペリニョン「P2-1998」の日本発売前日にここでお披露目会が開催されたそうです。  

 

野球場が一つ入ってしまうほどの巨大な地下空間です。ここから約1000万本の石が切り出され日本全国に出荷されました。

 

これは石の華の名残でしょうか。白い結晶は、大谷石に含まれる塩分が冬場の乾燥した時期に噴き出るもので、夏場の占めた壁面では消滅する不思議な現象と説明されていました。

見学が終わってから外に出ると別世界。まるで蒸し風呂です。

姿川沿いにある大谷景観公園です。大谷石がむきだしの岩壁が続き、この崖は御止山と呼ばれ国指定名勝にもなっています。大谷地区ならではの迫力ある景観です。

 

近くに奇岩があるので寄り道してみました。亀岩です。

 

ラクダ岩です。

 

続いて、もう一つの目的地である大谷寺へ向かいます。

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日光駅から宇都宮駅へ 2019.9.6

2019-09-11 21:29:22 | 旅行

輪王寺三仏堂でご本尊を拝んだ後、大谷川にかかる神橋を見学してJR日光駅へ戻ります。途中のパン屋で軽く昼食休憩後、12時15分過ぎに日光駅に到着。電車の発車まで5分程度。ざっと駅を見学します。JR日光駅は世界遺産「日光の社寺」や奥日光観光の玄関口。大正時代に建てられた歴史的建造物が似合いますね。

 

日光駅の表札。

 

改札口には折り紙の作品。お猿さんが可愛いい

 

駅の時計も日光駅仕様。

 

ここは貴賓室です。内部は非公開?

 

お隣は今市駅です。

 

この電車で宇都宮へ向かいます。

 

 

鉄ネタついでにおまけの画像です。これは日光市内のお土産屋で見かけた電話ボックス。ロープウエイのゴンドラみたい。。。

 

JR日光駅からJR宇都宮駅までは40分余り。ずっと歩き通しだったので、ちょうどよい休憩時間となりました。車内放送は日本語に加え英語、中国語、スペイン語が聞こえてきました。国際的な路線ですね。車内で聞くスペイン語の放送は初めてかもしれません。

 

宇都宮駅に到着。日光線の表示はレトロ調です。

 

折り返し日光行きとなります。

宇都宮からバスでもう一つの目的地である大谷資料館へ向かいます(続く)。

 

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日光散策(6) 日光山輪王寺 2019.9.6

2019-09-11 21:27:44 | 旅行

二荒山神社の鳥居の西側には輪王寺の大猷院が隣接しています。大猷院は徳川三代将軍「家光公」の廟所で、境内には世界遺産に登録された数多くの重要文化財が続いています。まだ時間があるので仁王門から拝殿、家光公の廟所を見学してきました。

 

一つ目の門は重要文化財の仁王門。2体の仁王像(金剛力士像)が祀られています。

 

向かって右側の密迹金剛は「阿」と口を開いています。

 

向かって左の那羅延金剛は「吽」と口を結んでいます。口の形は物事の始まりと終わりを示し、阿吽の呼吸の語源になったと言われています。

 

仁王門をくぐると正面に御影石の御水舎(需要文化財)。

 

天井には狩野永真安信による龍の絵が描かれています。水面に映る姿から「水鏡の龍」と呼ばれています。

 

御水舎の左手階段の上には、大きな二天門が姿を現します。二天を安置していることからそのように呼ばれています。

 

とても大きく立派な門です。

 

大猷院と書かれた正面の扁額は、108代天皇「後水尾上皇」による筆です。

 

向かって左側は持国天。

 

右側は増長天。

 

裏手にまわると右側に雷神。

 

左側が風神です。

 

二天門の先は右手に上がる階段が続きます。その手前に「幡」の礎石の説明がありました。大法要なので境内に掲げる仏教様式の旗を「幡」、それを吊るす竿を「幡竿」といいます。この丸い石は幡竿を立てる基礎石を護るための蓋となっています。境内に80箇所あるそうです。

 

階段の上から二天門を見下ろします。

 

階段を上ると正面に荘厳な夜叉門が見えてきました。その手前には鼓楼と鐘楼。いずれも重要文化財です。

 

向かって左側の鼓楼。太鼓がおさめられています。

 

向かって右側の鐘楼。ここには大きな釣鐘がおさめられています。大きな法要の際には、この釣鐘と太鼓が打ち鳴らされたそうです。

 

そして正面の夜叉門。4体の夜叉(阿跋摩羅(あばつまら)、毘陀羅(びだら)、烏摩勒伽(うまろきゃ)、犍陀羅(けんだら)) が安置され霊廟を守ります。夜叉門にはボタンの花が彫刻されているので別名「牡丹門」とも呼ばれています。

 

毘陀羅(びだら:赤色)は南の方角を守護します。

 

阿跋摩羅(あばつまら:緑色)は北の方角を守護します。

 

裏手にまわると、鍵陀羅(けんだら:白色)は西の方角を守護します。

 

そして烏摩勤伽(うまろきゃ:青色)は東の方角を守護します。この烏摩勤伽は破魔矢の発祥とされ、全国的にも非常に珍しい仏様のようです。拝殿で巫女さんの説明を聞いたときにそのよう話していました。

 

拝殿側からみた夜叉門です。

 

夜叉門の先には拝殿、相の間、本殿があります。こちらは中での撮影厳禁です。拝殿・相の間・本殿と連なる独特な建造物の構造を権現造りと言います。この建物は国宝に指定されており、たくさんの金彩が使われている大猷院の中心となる建物です。

たくさんの金彩が使われているので、別名金閣殿と呼ばれています。内部を見学することができます。正面には狩野探幽の描いた唐獅子、天井には140枚の龍の絵、家光公が着用した鎧などが展示されていました。

 

参考に案内板を紹介しておきます。

 

本殿の先には皇嘉門。奥の院の入り口に当たる門は、明朝様式の竜宮造りで、別名竜宮門と呼ばれています。この門の先に家光公のお墓所があります。

以上が輪王寺大猷院の紹介でした。駆け足で巡ってしまいましたが、ゆっくりと一日かけて見学する価値があります。

 

輪王寺の御本堂(三仏堂)は大猷院から歩いて10分、東照宮の参道入口付近ところにあります。帰りの通り道にあるので立ち寄ってみました。

 

HPから引用します。輪王寺の御本堂は日光山随一、東日本では最も大きな木造の建物で、平安時代に創建された全国でも数少ない天台密教形式のお堂です。現在の建物は、正保2(1645)年、徳川三代将軍「家光」公によって建て替えられました。

 

今年の4月に平成の大修理が完成しました。三仏堂の内陣には、日光三所権現本地仏(千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音)という三体の大仏さまが安置されています。ご本尊の修理も完了し「修行の谷間」より間近に見上げることができます。向かって右から千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音と並んでいますが、それぞれ日光連山の主峰男体山(父親)・女峰山(母親)・太郎山(子)を現しています。中央が母親なのですよね。3体の仏様、近くで見上げると大迫力です。高さ7.5メートルもあるそうです。

 

東照宮、二荒山神社、輪王寺と日光の見どころを巡ってきました。まだまだ散策したいところですが、午後から石の里「大谷」を見学する予定です。宇都宮からバスで30分かかるので、そろそろ日光駅へ戻る時間となりました(続く)。

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日光散策(5) 二荒山神社(御本社) 2019.9.6

2019-09-08 23:34:25 | 旅行

東照宮から二荒山神社へ向かうルートとして、東照宮入口から西へ向かい参道の階段を上るコースと、東照宮表門脇から斜めにショートカットする二つのコースがあります。今回は時間節約のため、ショートカットを利用しました。

 

上新道と呼ばれる参道を歩くこと約5分で二荒山神社に到着。正面に楼門が見えてきます。この楼門は、日光開山の祖、勝道上人が782年に多くの苦難を乗り越え男体山の登頂に成功してから1200年の年月を記念して1982年(昭和57年)に建てられました。

 

扁額です。

ここで二荒山神社について簡単に紹介しておきます。二荒山神社は関東の霊峰男体山(2486m)を御神体山として祀る神社で創建は1200年以上前に遡ります。ご祭神は二荒山大神と称し、親子三神で、主祭神の大己貴命・妃神の田心姫命・御子神の味耜高彦根命が祀られています。男体山山頂に奥宮、中禅寺湖畔に中宮祠、日光市内地区には御本社と3座鎮座しています。

 

楼門をくぐると、いきなり麻掛け大黒様。 なぜ神社に? ひとまず麻に触れて身を清め、お腹をたくさんさすってきました(笑)

説明によると、二荒山神社の主祭神は大己貴命。別の名は、大国主命・だいこく様とも呼ばれ、福の神縁結びの神様です。あらゆる縁を結んでくださる神様です。

そのあたりの経緯は調べてみないと・・・

 

日光の巫女「八乙女さん」がお出迎え。名前は神尾明里。西八王子駅近くの萌え寺みたいな雰囲気。。。

 

唐銅鳥居は重要文化財に指定されています。銅製の鳥居であり、1769年に造営、30年後の1799年に再建されています。二荒山神社の額、その周囲には二荒山神社の社紋である三つ巴紋が配置されています。写真では切れてしまいましたが、両柱の下部には蓮の文様が施されています。

 

 栃木県酒造組合による献酒樽です。東照宮の眠り猫の近くの回廊でも見かけました。

 

こちらが拝殿です。この奥に本殿があります。2代将軍秀忠が東照宮を最初に造営した時にここも創建建立した(1619年) と伝えられれています

 

神楽殿です。

 

中央には金ぴかの大黒様。両脇に銀色のネズミを従えています。説明によると足尾の大黒様のようです。

 

神楽殿と拝殿の間を抜けて本社境内に入ると、日枝神社や大国殿、本殿に行くことができますが時間が無くなってきたので見学はここまでとしました。神楽殿と拝殿前に良と縁と書かれた狛犬がいます。良い縁 狛犬と呼ばれているそうです。両方共に獅子の姿をしているようです。

 

拝殿前の狛犬。開口した獅子です。

 

 説明がありました。狛犬は獅子や犬に似た想像上の生き物。起源は古代エジプト・メソポタミアでの神殿を守るライオン像なのですね。飛鳥時代に日本に伝わった当初は獅子であり、左右の姿に差異はなく開口した姿であったと言われています。平安時代になって、それぞれ異なった外見を持つ獅子と狛犬の阿吽の開口閉口の像が対象で置かれるようになったそうです。東照宮の奥宮拝殿前の狛犬は阿吽の開口閉口の像でした。

  

 神楽殿前の狛犬も開口した獅子です。飛鳥時代の狛犬を再現した姿です。これらの狛犬は世界文化遺産登録15年を記念して平成27年に奉納されました。

 

神楽殿の脇には三本杉。

 

 二荒山神社のご神木です。

 

 神門の両脇には夫婦杉(左側)と親子杉(右側)。

 

 左側の夫婦杉は夫婦円満の御神木。

 

右側の親子杉は家庭円満の御神木。

二荒山神社の主祭神はあらゆる縁を結んでくださる神様。縁結びの神様が祀られているので、縁に関するものばかりです。

 

親子杉の傍の手水舎。神橋の幟が立っていました。こちらも良い縁の橋渡し。帰りに寄ってみましょう。

帰りは神門から階段を下ります。

 

 階段を下ったところの鳥居の脇には「良い縁 打ち出の小槌」。とても新しそうです。

 

 今年(令和元年)、天皇陛下御即位を奉祝し、良い縁を願い奉納されたばかりです。

 

 反対側には、むすび大国様。

 

昨年、天皇陛下即位30年を祝う記念事業の一環として奉納されたそうです。

 

 二荒山神社の鳥居。両脇には紹介した打ち出の小槌と、むすび大黒様。階段の上が神門です。

縁結びの神様だらけの二荒山神社(御本社)でした。 中禅寺湖畔にある中宮祠にも行ってみたくなりました。そしていつかは男体山頂の奥宮へ。近くにある百名山ですが、なかなか登る機会がありません。

 

 

帰りに見た神橋です。良い縁の橋渡しですね。こちらも重要文化財に登録されています。

続いて輪王寺を見学することにしました(続く)。

 

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日光散策(4) 東照宮奥宮から御本社、神輿舎へ 2019.9.6

2019-09-08 16:32:42 | 旅行

東照宮巡りは一番奥まった奥宮に到着。奥宮は、拝殿・鋳抜門(いぬきもん)・御宝塔からなる御祭神のお墓所。いずれも重要文化財に指定されています。 

 

右手前は御宝蔵です。外部全体が青銅で包まれています。この御宝蔵は朝廷から家康公並びに東照宮におくられた官符宣命等の文書を収めたものだそうです。御宝蔵横の階段を上がった正面が拝殿です。

 

階段下の左側には口を閉じた角ありの「吽像」の狛犬

 

階段下右側は口を開いた角なしの「阿像」で獅子。伝統的な狛犬です。

 

階段を上がった正面の奥社拝殿。この奥にある御宝塔に参拝するための社殿で、将軍のみ昇殿参拝を許されました。建物全体が黒漆が塗られた銅や真鍮で包まれ毛彫が施されています。

 

 拝殿上部の装飾です。

 

 

奥宮拝殿の奥に鋳抜門があります。 鋳抜門は唐銅製(金・銀・銅の合金)で屋根・柱・壁などを鋳造されています。慶安3年(1650)に建立されました。扉以外の柱や梁などが一つの鋳型で作られていることから鋳抜門と称されています。

 

鋳抜門の真後ろに奥宮宝塔があります。奥宮宝塔は徳川家康の墳墓の上に建てられたもので当初は木造でしたが、天和3年(1683)将軍綱吉公の時に鋳物師の椎名伊豫により唐銅製に鋳造されました。

 

奥社宝塔の説明です。 

 

8角5段の石の基盤の上に更に3段を青銅で鋳造し、その上に宝塔が乗せられています。

 

 裏側にまわり振り返ります。正面奥に鋳抜門。右奥には幹が折れた大木。

 

その大木は樹齢約600年の叶杉です。

 

 

 ほこらに向かって唱えると願い事が叶うと言われています。

 

奥社宝塔を一周し、鋳抜門を振り返ります。 

再び階段を下り、御本社へ向かいます。

 

まずは祈祷殿(需要文化財)。結婚式や初宮などのご祈祷が行われます。

 

御本社は本殿・石の間・拝殿からなり東照宮の最も重要なところです。例祭をはじめ、年中の祭典が斎行されます。また拝殿左右には、「将軍着座の間」・「法親王着座の間」があります。現在御本社は平成の大修理中で足場が組まれています。祈祷殿と唐門の間から本殿に入れるので見学してきました(内部は撮影禁止です)。拝殿の天井に描かれた狩野探幽らによる龍の装飾は見事でした。ここで神主さんが日光東照宮について説明してくれました。お土産に慶祝令和とかかれた陽明香守(御香守り)を500円で購入。白檀の香りがするお守りです。

 

本殿の帰りにまだ見学していなかった神輿舎を外から見学。こちらも重要文化財です。中には春秋渡御祭(5月18日、10月17日)に使われる、三基の神輿が納められています。

 

東照宮大祭の様子が写真で紹介されていました。

 

中の様子を拝見。3基の神輿が収められ、中央は徳川家康公、右側は豊臣秀吉公、左側は源頼朝卿の神輿です。鏡天井の金箔地には狩野弥右衛門による天女舞楽の図が描かれています。

 

最後に訪れたのは本地堂(薬師堂)。天井の龍の絵は鳴き龍として知られています。大勢の観光客や子供たち(遠足や修学旅行)が殺到していて入館するのに大行列。相当な待ち時間を要しそうです。中も騒々しく鳴き龍を体験できそうに無さそうなので、ここはパスすることにしました。

 

約1時間30分かけて東照宮をめぐってきました。まだ時間があるので、お隣りの二荒山神社まで足を運んでみることにします(まだまだ続く)。

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日光散策(3) 東照宮唐門から眠り猫を見て奥宮へ 2019.9.6

2019-09-08 15:30:19 | 旅行

豪華絢爛な陽明門を抜けると正面に唐門、右手に神楽殿と坂下門と続きます。唐門の背後には平成の大修理中の御本社が控えます。陽明門、御本社、唐門、坂下門の眠り猫と国宝がひしめき合っています。

 

 

まずは唐門を見学。門が開かれ拝殿の様子を見ることができます。全体が胡粉で白く塗られ、「許由と巣父(きょゆうとそうほ)」や「舜帝朝見の儀(しゅんていちょうけんのぎ)」など細かい彫刻がほどこされています。柱には昇龍、降龍の彫刻が施されています。唐門の屋根には鰭切れの龍(昼の守り)と、恙(つつが)とも呼ばれる唐獅子(夜の守り)が飾られています。

 

唐門の説明板です。江戸時代の参拝基準となった門で、ここより昇殿出来る者は御目見得以上の幕臣や大名に限られていたようです。

 

 

 

唐門の上部には「舜帝朝見の儀」が彫られているそうです。

 

 

右手には神楽殿(重要文化財)。春の大祭では八乙女が神楽を奉納します。

神楽殿の先の坂下門を抜けて奥宮へ向かいます。

  

坂下門手前の回廊の上に、国宝に指定されている彫刻「眠り猫」があります。

 

 

眠り猫は左甚五郎作と伝えられています。牡丹の花に囲まれ日の光を浴び、うたたねをしているところから「日光」に因んで彫られたとも言われています。

これより奥宮に通じます。江戸時代には将軍しか入れなかった開かずの門だったそうです。

 

奥宮参道の説明です。階段は207段あります。 

 

坂下門の先から階段が始まり、しばらく平坦な参道を歩き、再び階段が続きます。 

 

東照大権現と書かれた扁額の掛かる青銅製の鳥居が見えてきました。三の鳥居となります。ここから先が奥宮です(さらに続く)。 

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日光散策(2) 東照宮表門から陽明門 2019.9.6

2019-09-07 18:11:55 | 旅行

五重塔を見学後、いよいよ正面の東照宮へ向かいます。日光東照宮は、元和3年(1617)徳川初代将軍徳川家康公を御祭神におまつりした神社で、現在のおもな社殿群は三代将軍家光公によっり寛永13年(1636)に造替されたものです。社殿群は平成11年12月に「世界文化遺産」に登録されました。

昭和25年4月から着手した昭和大修理事業に続き、平成の大修理により多くの社殿が美しくよみがえっています。現在も御本社を中心とした修理工事が数められています。

 

最初の表門です。東照宮最初の門で左右に仁王像が安置されています(仁王門とも呼ばれています)。昨日は大勢の生徒が修学旅行や遠足で訪れていて大混雑でした。

 

表門の左手にコウヤマキの大木があります。樹齢370年、樹高38m、目通り直径1.4mあります。栃木の名木100選に選ばれています。

 

コウヤマキの大木のすぐ脇にあるのが神厩舎です(重要文化財)。ご神馬をつないでいた厩です。建物の欄間には8個の神猿彫刻が飾られています。

 

これが有名な「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿彫刻です。

 

神厩舎の反対側には三神庫(重要文化財)。上神庫・中神庫・下神庫を総称して三神庫と呼び、千人武者行列で使用される馬具や装束類が収納されています。上神庫の屋根下には立派な彫刻があります。 

 

狩野探幽が下絵を描いた大きな彫刻です。当時は日本に像がいなかったので想像で描かれたそうです。このように彫られると神聖な印象をうけますね。

 

上神庫の先には徳川の紋が彫られた鳥居の先に陽明門が姿を現します。その左手前が鼓楼、右側が鐘楼です。そして階段下脇の灯篭は南蛮鉄燈籠。

 

正面の陽明門は遠くから見てもとても美しいです。

陽明門の手前にも多くの社殿があるので紹介しておきます。

 

水屋(御水舎)です。こちらも重要文化財です。ここで心身を清めます。花崗岩の水盤を中央に配し、水を使うことを考慮して柱は腐らぬよう花崗岩でつくられています。は元和4年(1618)九州佐賀藩主鍋島勝茂公によって奉納されました。屋根は唐破風。彫刻が配されていて桃山時代の豪快な彩色の代表的な遺風とされています。

 

天海版の一切経を収めた建物で経蔵とも言います。内部には輪蔵と呼ばれる八角形の回転式大書架があります。

 

陽明門向かって右側の鐘楼です。

 

 

向かって左側の鼓楼です。鐘楼とは参道をはさんで左右対称に配置されています。いずれも重要文化財です。構造、意匠ともにほぼ同じつくりですが、彫刻の数が異なっています(鐘楼78体、鼓楼38体)。また鐘楼、鼓楼の先には陽明門の廻廊が続いています。こちらは国宝です。陽明門の左右に延びる建物で、外壁には我が国最大級の花鳥の彫刻が飾られています。いずれも一枚板の透かし彫りには、極彩色がほどこされています。

鼓楼手前の銅灯籠はオランダ国からの奉納されたものです。写真ではわかりにくいですが回転灯篭上部の葵紋がすべて上下逆さになっていることから、逆紋の廻り灯篭と呼ばれています。

 

続いて国宝、陽明門を見上げます。彩色鮮やかで豪華絢爛です。いつまで見ていても見飽きないところから「日暮の門」ともよばれ、故事逸話や子供の遊び、聖人賢人など508体の彫刻が施されています。

 

陽明門の案内板を紹介しておきます。 

 

 

 

 陽明門の扁額は後水尾天皇の直筆によるもので、「東照大権現」と書かれています。

 

日光東照宮の絢爛豪華な装飾を企画・構成したのは、幕府御用絵師である狩野探幽(1602- 1674)です。

 

 

どの彫刻も穏やかな表情をしています。泰平の世をもららした徳川家康公の功績をたたえ、理想的な政治の在り方を示すものと考えられています。

 

本殿を守る随身像(向かって右側) 

 

 向かって左側の随身像。これらは誰なのでしょうか。随身像の袴の家紋が、織田信長の家紋「木瓜」や明智光秀の家紋「桔梗」に似ているので注目されているようです。

 

陽明門の背面には狛犬(向かって右側) 

 

向かって左側の狛犬。東照宮のHPによると、狛犬は一般的に唐獅子と狛犬(角がある)の一対を総称した呼び名ですが、陽明門の一対にはどちらにも狛犬の特徴である角が付いていないので、両方唐獅子という珍しいものです。

 

陽明門の天上には狩野探幽作の昇り龍と降龍が描かれています。こちらは登り龍。八方睨みの龍とも呼ばれています。

 

こちらは降り龍。四方睨みの龍とも呼ばれています。いずれも今にも動き出しそうな龍でした。ゆっくりと見たいところですが、昨日は見学者が多く通路を歩きながらの見学となりました。

 

背面から見た陽明門です。

続いて唐門と眠り猫を見て奥宮へと向かいます(まだまだ続く)。

 

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日光散策(1) 東照宮五重塔 2019.9.6

2019-09-06 23:43:08 | 旅行

今日は休暇を取得し日光をめぐってきました。車で日光市内は素通りして奥日光方面へ向かうことが多いためか、日光市街を歩いたのは小学校の修学旅行以来かもしれません。東照宮や二荒山神社、輪王寺を全て巡ると丸一日かかるようですが、午後から石の里大谷にも行ってみたいので、日光は東照宮を中心に見学、時間が許す範囲で他の観光スポットにも寄ってみることにしました。

 

いつもと同じ時間に起床し、朝食後に友部のアパートを出発。6時48分発の水戸線で小山駅へ向かい、両毛線を2駅乗り栃木で東武日光線に乗り換えます。栃木駅から急行で約40分で東武日光駅へ到着します。新鹿沼駅を過ぎて今市に近づくにつれて空が青さを増し、車窓左側に日光連山が姿を現しました。9時16分に東武日光駅に到着。友部から約2時間30分です。

 

東武日光駅から東照宮までは約2km。大谷川沿いに上流へ向かいます。日光連山が近くに見えますが、男体山、大真子山、女峰山共に標高2000m以上は積雲の中です。

 

約50年ぶりの東照宮です。小学校の時に訪れた記憶はほとんど残っていません。

 

まずは五重塔に向かいます。スカイツリーとどのような関係があるのでしょうか・・

 

東照宮に向かう途中に、このような案内がありました。東照宮はスカイツリーとほぼ同じ高さにあるのですね。

 

東照大権現と書かれた鳥居をくぐります。正面が東照宮。

 

その左手前が五重塔です。高さは36m。極彩色の日本一華麗な五重塔で、初層軒下には富田宿(現大平町)の名工 後藤正秀が手がけた十二支の彫刻があります。また、初層内部にも漆塗り・彩色・漆箔がきらびやかに施されています。

 

重要文化財の説明です。なるほど。心柱は4層から鎖で吊り下げられ、下端が礎石から浮いているのですね。耐震効果の高い心柱構造は東京スカイツリーでも使われている技術です。

東照宮のHPから引用します。

塔を貫く心柱は事例の少ない懸垂式で、礎石には据えられず、四重から吊り下げられて浮いています。これは、時を経て重みで塔身が縮んだ際にも、心柱が五重の屋根を突き抜けてしまわないよう、江戸時代に考え出された工法です。  こうした工法が可能であったのは、五重塔の心柱が構造上塔身から独立して、先端の相輪だけを支えているためですが、一方で、そのように塔身と分離した心柱は、免震の機能を果たすとも考えられてきました。東京スカイツリーのデザイン監修者である元東京藝術大学学長 澄川喜一氏によれば、この五重塔の免震機能はスカイツリーの制振システム(心柱制振)にも応用されたといいます。

 

内部が公開されていたので見学します。公開されている内部の心柱は撮影禁止なので、説明資料を紹介します。

 

心柱の下端が地盤から10cm浮いている様子です。心柱制震と呼ばれる技術です。

せかっく内部に入ることができたので、名工 後藤正秀が手がけた十二支の彫刻を間近に見ることができました。ぐるっと紹介しておきます。順不同で撮影したので十二支の順番に編集しました。合ってるかな?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続いて東照宮を拝観します(続く)

 

 

 

 

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南会津梁取地区の成法寺 2019.6.21

2019-06-22 22:09:18 | 旅行

南郷から只見へ向かう途中、国道289線沿いにある「国指定重要文化財 成法寺観音堂」に立ち寄ります。一般農道に面して何も案内らしきものがありませんが、歴史を感じる建造物が見えてきたので間違いありません。

 

駐車場も案内もないので道路に車を停めて立ち寄ります。成法寺の観音堂の説明です。

 

南会津を紹介するHPから引用します。

成法寺観音堂は鎌倉時代に建てられ、現在の建物は16世紀に再建されたものと考えられています。中世の仏堂建築を知る上で貴重な建物であり、和唐折衷の様式を持ち、国の重要文化財に登録されています。 また、聖観音坐像は福島県の重要文化財に指定され、1311年(応長元年)の作とされます。鎌倉時代末期の只見地方の仏教文化を象徴する仏像といわれています。

 

 扁額です。

 

 木彫りや装飾もなく素朴な造りです。寄棟、茅葺、平入、桁行3間、梁間3間、外壁は真壁造り板張り、純唐様建築、鎌倉時代の様式の流れを組む御堂建築の遺構として大変貴重な事から昭和38年(1963)に国指定重要文化財に指定されたそうです。

 裏側から見た姿です。

 

 観音堂の西側にあるお堂です。こちらは木彫りに装飾が施されていました。屋根は新しそうですね。

 

 観音堂裏手の本堂?人気がありません。このお寺は住職不在。観音堂はお盆とお正月のみ御開帳されるようです。

 

 道路から見た成法寺。

寺の裏には奇岩怪石が並ぶ仏地山がそびえています。古くから信仰の対象になっていたらしく、弘法大師空海が訪れたとの伝説も残されています。

成法寺は住職不在ですが曹洞宗のお寺です。福島県・御蔵入三十三ヶ所観音霊場の1番札所にもなっています。

 

 

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