4月28日に八溝山から日光へ向かう途中、道の駅 須与一の郷に立ち寄りました。9時の開店まで時間があるため、道の駅裏手の那須神社を見学してきました。
那須神社の記載について大田原市観光協会のHPより抜粋します。
仁徳天皇(313~399年)時代の創立で、さらに延暦年中(782~806年)に征夷大将軍坂上田村麻呂が応神天皇を祀って八幡宮にしたと伝えられています。その後、那須氏の崇敬篤く、那須氏没落の後は黒羽(くろばね)城主大関氏の氏神としてあがめられ、天正5年(1577年)には大関氏によって本殿・拝殿・楼門(写真)が再興されたと社記は伝えています。
社宝には屋島の戦いで名を馳せた那須与一が奉納した太刀があります。春と秋には例大祭が催され、敬老の日の例大祭では弓の名手と知られる与一にちなんで流鏑馬が行われるそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/6c/1b05025fa7a133f4d0d0cca8c35ba45e.png)
長い参道の先に石のアーチが見えてきます。アーチを渡った正面が楼門です。平成26年3月18日に本殿と楼門が国重要文化財に指定されています。共に江戸時代初期の建造物がそのまま保存されているようです。
昭和52年から55年の3年間の解体修理工事で、それまでに解体された痕跡がないことと、下層一手先巻斗の墨書(寛永19年7月11日)、二重頭貫の墨書(寛永19年9月16日)などにより、楼門は天正5年(1577年)の造営ではなく、寛永19年(1642年)に建立されたことが判明しました。上層に屋根を架け、下層に高欄付きの縁を廻したいわゆる楼門形式になります。柱を受ける礎盤、頂部に粽をつけた柱、柱と柱の間にも斗栱を配置した詰組の形式など、典型的な禅宗様という建築様式になっています(大田原市のHPより引用)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/b8/666c0d4fe3089b3bd355ad769f979e2b.png)
楼門の上には巨大な雲龍が描かれています。この墨絵は創建当時からあるものではなく、昭和の修理の際に人間国宝の日本画家・堅山南風の監修の下、那波多目煌星・功一という親子の日本画家によって描かれたそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/d5/30c70f2c2ffbfd17fa455743f87dd25a.png)
楼門には仁王像ではなく武士の像が祀られています。大変珍しいです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/d7/a842e50a4eeda73f3a9440d326c3d1b2.png)
楼門の先に一対の石灯篭と本殿。石灯篭は寛永19年(1642年)3月に黒羽藩主江大関高増が所願成就のために奉納したもので、高さは基礎から宝珠まで約290cm、竿直径約45cm。石材は芦野石と思われ、基礎、中台、大袋、笠、請花は共に六角形で、笠の蕨手は大きく渦巻き模様。円筒形の竿の中間に節があり、この部分に大関土佐守高増が奉納したという銘文が刻されています(大田原市教育委員会)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/42/308ec1e1306c0f576014993b4c2f8b36.png)
本殿内部です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/ee/52648feb075d128c3637cf3e560a0e92.png)
本殿を横から眺めます。
現在の那須神社本殿は寛永18年(1641年)に大関高増が再建した当時のものです。形式は三間社流造り。外部の塗装彩色は剥落や退色が進んでいますが、柱や長押・桁・虹梁などに施された様々な繫文様(つなぎもんよう)の彩色や金箔押はいずれも当初のもので、華やかな桃山風の意匠です。沢瀉の丸紋彫物は大関氏の定紋で、造形的にも秀逸です。内部には鮮やかな色彩の装飾絵画も残っています。桁や垂木の形状や装飾の造形に中世の技法を残しますが、全体は近世の形式と技法であって、虹梁を組み込んだ斗栱や木鼻の渦紋は独特な細部です。中世から近世への転換期を代表する華麗な本殿建築といえます。江戸時代初期に建てられた数少ない神社本殿建築の遺構として貴重なことから平成26年)に国指定有形文化財に指定されました(大田原市HPより引用)。
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本殿の裏手には金丸塚があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/fc/4f64af992d9344d9a0beeca357040b68.png)
金丸塚の説明です。神社との関係は不明ですが、黄金の玉を埋めて塚を築き、祠を築き、天照大御神・日本武尊・春日大神の三柱を祀ったのが始めと言われています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/0c/b41f8ddc23a4fc81a38b1d826c557d05.png)
金丸塚の周囲にはウラシマソウが群生していました。
那須神社の記載について大田原市観光協会のHPより抜粋します。
仁徳天皇(313~399年)時代の創立で、さらに延暦年中(782~806年)に征夷大将軍坂上田村麻呂が応神天皇を祀って八幡宮にしたと伝えられています。その後、那須氏の崇敬篤く、那須氏没落の後は黒羽(くろばね)城主大関氏の氏神としてあがめられ、天正5年(1577年)には大関氏によって本殿・拝殿・楼門(写真)が再興されたと社記は伝えています。
社宝には屋島の戦いで名を馳せた那須与一が奉納した太刀があります。春と秋には例大祭が催され、敬老の日の例大祭では弓の名手と知られる与一にちなんで流鏑馬が行われるそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/6c/1b05025fa7a133f4d0d0cca8c35ba45e.png)
長い参道の先に石のアーチが見えてきます。アーチを渡った正面が楼門です。平成26年3月18日に本殿と楼門が国重要文化財に指定されています。共に江戸時代初期の建造物がそのまま保存されているようです。
昭和52年から55年の3年間の解体修理工事で、それまでに解体された痕跡がないことと、下層一手先巻斗の墨書(寛永19年7月11日)、二重頭貫の墨書(寛永19年9月16日)などにより、楼門は天正5年(1577年)の造営ではなく、寛永19年(1642年)に建立されたことが判明しました。上層に屋根を架け、下層に高欄付きの縁を廻したいわゆる楼門形式になります。柱を受ける礎盤、頂部に粽をつけた柱、柱と柱の間にも斗栱を配置した詰組の形式など、典型的な禅宗様という建築様式になっています(大田原市のHPより引用)。
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楼門の上には巨大な雲龍が描かれています。この墨絵は創建当時からあるものではなく、昭和の修理の際に人間国宝の日本画家・堅山南風の監修の下、那波多目煌星・功一という親子の日本画家によって描かれたそうです。
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楼門には仁王像ではなく武士の像が祀られています。大変珍しいです。
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楼門の先に一対の石灯篭と本殿。石灯篭は寛永19年(1642年)3月に黒羽藩主江大関高増が所願成就のために奉納したもので、高さは基礎から宝珠まで約290cm、竿直径約45cm。石材は芦野石と思われ、基礎、中台、大袋、笠、請花は共に六角形で、笠の蕨手は大きく渦巻き模様。円筒形の竿の中間に節があり、この部分に大関土佐守高増が奉納したという銘文が刻されています(大田原市教育委員会)。
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本殿内部です。
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本殿を横から眺めます。
現在の那須神社本殿は寛永18年(1641年)に大関高増が再建した当時のものです。形式は三間社流造り。外部の塗装彩色は剥落や退色が進んでいますが、柱や長押・桁・虹梁などに施された様々な繫文様(つなぎもんよう)の彩色や金箔押はいずれも当初のもので、華やかな桃山風の意匠です。沢瀉の丸紋彫物は大関氏の定紋で、造形的にも秀逸です。内部には鮮やかな色彩の装飾絵画も残っています。桁や垂木の形状や装飾の造形に中世の技法を残しますが、全体は近世の形式と技法であって、虹梁を組み込んだ斗栱や木鼻の渦紋は独特な細部です。中世から近世への転換期を代表する華麗な本殿建築といえます。江戸時代初期に建てられた数少ない神社本殿建築の遺構として貴重なことから平成26年)に国指定有形文化財に指定されました(大田原市HPより引用)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/e0/d1eee4c7df2cd97d61682a6410f180d5.png)
本殿の裏手には金丸塚があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/fc/4f64af992d9344d9a0beeca357040b68.png)
金丸塚の説明です。神社との関係は不明ですが、黄金の玉を埋めて塚を築き、祠を築き、天照大御神・日本武尊・春日大神の三柱を祀ったのが始めと言われています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/0c/b41f8ddc23a4fc81a38b1d826c557d05.png)
金丸塚の周囲にはウラシマソウが群生していました。