Gw、半ばですね~
さすがに、湖国の道路も、名神高速を筆頭に混みあってるらしい。
3日がお祭りというところも多いしね。
湖西とか、大津とか、草津とか、守山でも、祭りやってましたよ。
わが家のある地元は明日ですね。
なので、サバをお酢に漬けてます!!
それはともかく、令和元年の初日。
大阪へ行ってきました~
それも、外国人観光客がいっぱいのミナミ、難波です。
法善寺横丁の近くにある、上方ビル4階、
トリイホールです~
毎月1日は、トリイ寄席の日。
この日は、米朝事務所の社長兼噺家の桂米團治さんと、
米朝さんの孫弟子である、桂よね吉さんの二人会。
たっぷり、長講の落語を楽しませてもらいました。
始まる前に、トリイホールの支配人の鳥居さん(僧侶)が挨拶。
このトリイホールができる前は、ご両親が「上方旅館」を経営されていたとか。
ウィキペディアによれば、戦前は鳥居家が貸席屋を営んでいたらしい。
空襲で焼けたあと、松竹座など近くの劇場に要請されて、
芸人や役者の泊る旅館を始めたんやそうな。
両親が亡くなった時、現オーナーの鳥居さんは大丸百貨店に勤務、
旅館をたたむことになったけれど、この旅館を使っていた、
古今亭志ん朝さんや米朝さんたちに、大阪にはホールが少ない、
若手芸人のけんさんの場をつくって欲しいと頼まれて、
1991年、バブル絶頂期に、このビルを建てることにしたそうです。
実際に建築し始めたのが3年後、バブルがはじけて、
ビルとともに多大な借財も残ったそうです~
現在、僧侶となった鳥居さん、実は、亡くなった両親は、
本当の親ではなく・・・・という自伝を語りたかったようですが、
残念ながら、お時間になってしまいました!
・・・・う~ん、聞きたい~~(苦笑)
そして開演~
ステージには、ぺらっとした座布団が二枚。
米團治さんとよね吉さんのトークコーナーからです。
打ち合わせがあったのかどうかは知らんけど(多分、なさそう)
よね吉さんがいきなり、ノートをちぎったような?紙を出し、
「いっぺん聞いてみたかったことを、兄さんにお聞きします」
「ほう~そういう展開かいな」
「あの、なんで、私と二人会をしようと思わはったんですか?」
「それは、あんたがヒマやったからやないか~」
会場、納得の?笑いと拍手!
「社長になったらたいへんですねん。
ヨシモトと違うて、ウチは、2割しかもらいませんねん。
そやから、やりくりがたいへんで、噺家を遊ばしとけへん」
「兄さんは、米朝師匠の家にお生まれになって、
・・・お父さんにも敬語で話してはるんですよ。
そんな、血筋というか家柄のええとこの息子さんなんですけど、
なんでか、いつも、自分を貶めて・・・」
「貶めてへんがな! 落としてるだけやがな」
会場、爆笑です。
ほんま、ええ人なんですよね。
サラブレッドやのにちっとも偉そうにしない人なんです。
「お父さんは米朝師匠というすごい人ですけど、ご自分のお父さんが、
そんなすごい人やというのは、いつごろわかったんですか?」
「・・・やっぱり、小学生くらいのごろかな。
いつも家の中に内弟子さんがいてるからね。よそとは違う家やなと。
内弟子さんに面倒をみてもらって、ざこばさんにいじめられたりとか(笑)」
「前の天皇陛下は7歳の時に太平洋戦争が勃発して、
9歳の時に終戦を迎えて、いろいろ考えられたそうですけど、
兄さんは、9歳ぐらいの時はナニを考えてはりました?」
「?? 小学生のころやろ?・・・な~んも、考えてない」
またまた、会場爆笑です~ さもありなん?
前座の、桂二乗くんの「牛ほめ」のあと、
米團治さんの「らくだ」、中入りのあと、
よね吉さんの「中村仲蔵」が口演されました。
こちらの感想は‥長くなりそうなので、また次回にでも。
終演後、時間も遅いので、よね吉さんファンの地元の人が教えてくれた、
「立ち寿司」で、友だちと一杯。
畳一畳、幅が半間というようなお店で、
立ったまま食べるんですけど、大阪らしいお店ですよね~
このドアの幅しかないお店です。
リンゴ箱を並べただけのような?四角いテーブルが(50CM幅ぐらい)
二つ、壁に引っ付けて並んでます。
ひとつは先客の女性が二人、あとの一つに、向かい合って立ちます。
奥に厨房があって、その向かい側にもカウンターがあるようで、
そちらにも、お客さんが立ってました。
お店を出た後に、横の路地をのぞいてみたら・・・
確かに! お店のりっぱな?扉がありました~
・・でも、カウンターはスタンド、なんですよ!
落語の感想を話しながら30分あまりの宴。
お寿司も、海鮮ユッケもおいしいかった~
・・・でも、さすがに足だるいな・・・(汗)
さすがに、湖国の道路も、名神高速を筆頭に混みあってるらしい。
3日がお祭りというところも多いしね。
湖西とか、大津とか、草津とか、守山でも、祭りやってましたよ。
わが家のある地元は明日ですね。
なので、サバをお酢に漬けてます!!
それはともかく、令和元年の初日。
大阪へ行ってきました~
それも、外国人観光客がいっぱいのミナミ、難波です。
法善寺横丁の近くにある、上方ビル4階、
トリイホールです~
毎月1日は、トリイ寄席の日。
この日は、米朝事務所の社長兼噺家の桂米團治さんと、
米朝さんの孫弟子である、桂よね吉さんの二人会。
たっぷり、長講の落語を楽しませてもらいました。
始まる前に、トリイホールの支配人の鳥居さん(僧侶)が挨拶。
このトリイホールができる前は、ご両親が「上方旅館」を経営されていたとか。
ウィキペディアによれば、戦前は鳥居家が貸席屋を営んでいたらしい。
空襲で焼けたあと、松竹座など近くの劇場に要請されて、
芸人や役者の泊る旅館を始めたんやそうな。
両親が亡くなった時、現オーナーの鳥居さんは大丸百貨店に勤務、
旅館をたたむことになったけれど、この旅館を使っていた、
古今亭志ん朝さんや米朝さんたちに、大阪にはホールが少ない、
若手芸人のけんさんの場をつくって欲しいと頼まれて、
1991年、バブル絶頂期に、このビルを建てることにしたそうです。
実際に建築し始めたのが3年後、バブルがはじけて、
ビルとともに多大な借財も残ったそうです~
現在、僧侶となった鳥居さん、実は、亡くなった両親は、
本当の親ではなく・・・・という自伝を語りたかったようですが、
残念ながら、お時間になってしまいました!
・・・・う~ん、聞きたい~~(苦笑)
そして開演~
ステージには、ぺらっとした座布団が二枚。
米團治さんとよね吉さんのトークコーナーからです。
打ち合わせがあったのかどうかは知らんけど(多分、なさそう)
よね吉さんがいきなり、ノートをちぎったような?紙を出し、
「いっぺん聞いてみたかったことを、兄さんにお聞きします」
「ほう~そういう展開かいな」
「あの、なんで、私と二人会をしようと思わはったんですか?」
「それは、あんたがヒマやったからやないか~」
会場、納得の?笑いと拍手!
「社長になったらたいへんですねん。
ヨシモトと違うて、ウチは、2割しかもらいませんねん。
そやから、やりくりがたいへんで、噺家を遊ばしとけへん」
「兄さんは、米朝師匠の家にお生まれになって、
・・・お父さんにも敬語で話してはるんですよ。
そんな、血筋というか家柄のええとこの息子さんなんですけど、
なんでか、いつも、自分を貶めて・・・」
「貶めてへんがな! 落としてるだけやがな」
会場、爆笑です。
ほんま、ええ人なんですよね。
サラブレッドやのにちっとも偉そうにしない人なんです。
「お父さんは米朝師匠というすごい人ですけど、ご自分のお父さんが、
そんなすごい人やというのは、いつごろわかったんですか?」
「・・・やっぱり、小学生くらいのごろかな。
いつも家の中に内弟子さんがいてるからね。よそとは違う家やなと。
内弟子さんに面倒をみてもらって、ざこばさんにいじめられたりとか(笑)」
「前の天皇陛下は7歳の時に太平洋戦争が勃発して、
9歳の時に終戦を迎えて、いろいろ考えられたそうですけど、
兄さんは、9歳ぐらいの時はナニを考えてはりました?」
「?? 小学生のころやろ?・・・な~んも、考えてない」
またまた、会場爆笑です~ さもありなん?
前座の、桂二乗くんの「牛ほめ」のあと、
米團治さんの「らくだ」、中入りのあと、
よね吉さんの「中村仲蔵」が口演されました。
こちらの感想は‥長くなりそうなので、また次回にでも。
終演後、時間も遅いので、よね吉さんファンの地元の人が教えてくれた、
「立ち寿司」で、友だちと一杯。
畳一畳、幅が半間というようなお店で、
立ったまま食べるんですけど、大阪らしいお店ですよね~
このドアの幅しかないお店です。
リンゴ箱を並べただけのような?四角いテーブルが(50CM幅ぐらい)
二つ、壁に引っ付けて並んでます。
ひとつは先客の女性が二人、あとの一つに、向かい合って立ちます。
奥に厨房があって、その向かい側にもカウンターがあるようで、
そちらにも、お客さんが立ってました。
お店を出た後に、横の路地をのぞいてみたら・・・
確かに! お店のりっぱな?扉がありました~
・・でも、カウンターはスタンド、なんですよ!
落語の感想を話しながら30分あまりの宴。
お寿司も、海鮮ユッケもおいしいかった~
・・・でも、さすがに足だるいな・・・(汗)