本校は、学校中だいたいは掃除ができており、「男子高でこんなにきれいなんですね」と来校者に言われることもある。
教室は担任が、共有スペースは担当がそうじに気をつかい、それなりに美麗を保っているのは、万が一汚い場合には叱責されるからだ。
「東階段よごれてるなあ、誰だそうじ監督は」的な言葉が発せられたとき、担当は気づかれないように走ってそうじしにいく。
そうじ当番のミスであっても許されない。
「いやあ、今週のそうじ当番つかえないんですよお」などと軽く言い返したりしようものなら、翌日机が無くなっていても不思議ではないのが、私学である。
ただし、職員室は微妙だ。
印刷機付近がけっこうちらかってて、ゴミ箱がいっぱいだった。
責任を問われない箇所は、こんなにいい加減になるのかと思いつつも、それが人の業というものであり、イエローハット社員みたくはなれないものである。
で、朝ゴミをまとめて捨てようとしてたら、若い先生に「あっ、やります」と言われた。
おれもまだまだだ。
「なんでおれがゴミ捨てやんなきゃいけないんだよ、だれかやれよ」的な光線を発してしまっていたのだろう。
誰にも気づかれずにすうっとゴミ出しにいけないようでは、まだ未熟だ。
中島敦の「名人伝」という小説は、ある弓の名人の一生を描く。
天下一の弓の名人になろうと志を立てた紀昌(きしょう)は、名人飛衛(ひえい)に弟子入りし修練を積む。
数年の後、師からは学ぶものはなくなったと自覚した紀昌は、師を射て自分が天下一になろうと考えてしまう。
師は、あらたな目標を与えるべきと知り、西に甘蠅(かんよう)老師という大家がい、その人の技に比べればわれらの弓は児戯に過ぎないという。
紀昌は西に向かう。
紀昌を迎えたのは、柔和な目をしたよぼよぼの爺さんだった。
気負った紀昌が弓をかまえ、渡り鳥の群れに向かって矢を射ると、五羽の鳥がおちてくる。
それをみて老師が言う。
「ひととおりは、できるようじゃな。しかし、それは射之射じゃ。おまえは不射之射を知らぬようだ」と。
そして、弓も持たず、矢もつがえず、しかし弓をかまえて見えざる矢を射るかっこうをすると、はるか遠くの空にごまつぶのように見えていた鳥が中空を落ちてくるのだ。
このとき紀昌ははじめて、芸道の奥の深さを知った。
この大家のもとで九年にわたる修業をつみ、山をおりてきた紀昌の顔は、以前とは比べものにならないほど柔らかい顔になっていた。
晩年、紀昌が知人の家である器具を目にする。
昔手にしたことがあり、何かに使った気はするが、何の道具か思い出せない。
知人にそれは何かと尋ねるのだが、知人は冗談を言っているのだととりあわなかった。
しかし紀昌が、本気で弓のなんたるかを忘れていることに気づき、知人は驚くのだった。
「しょうがねえな、おれが捨てるか」という顔でゴミを捨てているようでは、捨之捨にすぎぬ。
不捨之捨の境地に達するにはまだまだ修業が足りない。
教室に行き、ふと黒板付近を目にし、そこあるチョークがいったい何をするものなのか思い出せない状態になってはじめて名人と言える。
指揮棒で指揮をするなど、児戯に等しいのである。
教室は担任が、共有スペースは担当がそうじに気をつかい、それなりに美麗を保っているのは、万が一汚い場合には叱責されるからだ。
「東階段よごれてるなあ、誰だそうじ監督は」的な言葉が発せられたとき、担当は気づかれないように走ってそうじしにいく。
そうじ当番のミスであっても許されない。
「いやあ、今週のそうじ当番つかえないんですよお」などと軽く言い返したりしようものなら、翌日机が無くなっていても不思議ではないのが、私学である。
ただし、職員室は微妙だ。
印刷機付近がけっこうちらかってて、ゴミ箱がいっぱいだった。
責任を問われない箇所は、こんなにいい加減になるのかと思いつつも、それが人の業というものであり、イエローハット社員みたくはなれないものである。
で、朝ゴミをまとめて捨てようとしてたら、若い先生に「あっ、やります」と言われた。
おれもまだまだだ。
「なんでおれがゴミ捨てやんなきゃいけないんだよ、だれかやれよ」的な光線を発してしまっていたのだろう。
誰にも気づかれずにすうっとゴミ出しにいけないようでは、まだ未熟だ。
中島敦の「名人伝」という小説は、ある弓の名人の一生を描く。
天下一の弓の名人になろうと志を立てた紀昌(きしょう)は、名人飛衛(ひえい)に弟子入りし修練を積む。
数年の後、師からは学ぶものはなくなったと自覚した紀昌は、師を射て自分が天下一になろうと考えてしまう。
師は、あらたな目標を与えるべきと知り、西に甘蠅(かんよう)老師という大家がい、その人の技に比べればわれらの弓は児戯に過ぎないという。
紀昌は西に向かう。
紀昌を迎えたのは、柔和な目をしたよぼよぼの爺さんだった。
気負った紀昌が弓をかまえ、渡り鳥の群れに向かって矢を射ると、五羽の鳥がおちてくる。
それをみて老師が言う。
「ひととおりは、できるようじゃな。しかし、それは射之射じゃ。おまえは不射之射を知らぬようだ」と。
そして、弓も持たず、矢もつがえず、しかし弓をかまえて見えざる矢を射るかっこうをすると、はるか遠くの空にごまつぶのように見えていた鳥が中空を落ちてくるのだ。
このとき紀昌ははじめて、芸道の奥の深さを知った。
この大家のもとで九年にわたる修業をつみ、山をおりてきた紀昌の顔は、以前とは比べものにならないほど柔らかい顔になっていた。
晩年、紀昌が知人の家である器具を目にする。
昔手にしたことがあり、何かに使った気はするが、何の道具か思い出せない。
知人にそれは何かと尋ねるのだが、知人は冗談を言っているのだととりあわなかった。
しかし紀昌が、本気で弓のなんたるかを忘れていることに気づき、知人は驚くのだった。
「しょうがねえな、おれが捨てるか」という顔でゴミを捨てているようでは、捨之捨にすぎぬ。
不捨之捨の境地に達するにはまだまだ修業が足りない。
教室に行き、ふと黒板付近を目にし、そこあるチョークがいったい何をするものなのか思い出せない状態になってはじめて名人と言える。
指揮棒で指揮をするなど、児戯に等しいのである。