水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

係り結び

2009年06月09日 | 日々のあれこれ
 先週から教育実習生が来て勉強しているが、誰も授業を見にきてくれない。
 ちがう教科であっても、見るべき人のは見た方がいいと思うんだがなあ。
 その対象になってないのね。ぐすん。
 今日なんかも、「老婆は羅生門のところで休んでいたんですかね。これが、老婆の休日です」は少し受けた。
 こういうハイソなギャグを学ばずに何を学ぶのだろう。
 って冗談みたく聞こえるかもしれないが、実習で学ぶべきことって、ほんとにこういう生徒との呼吸のはかりぐあいみたいなものではないかと思う。
 この教材をどう教えるかなんてのは、本にある程度書いてある。
 生身の高校生を相手にできることを体感してほしいなあ。
 この先指導教官になる可能性は少ないような気がするけど。

 古文の時間に「係り結びの法則」を教える。
 古典において唯一「法則」とよばれるものだが、「ボイルシャルルの法則」なんてのにくらべると、法則とよんでいいのかとも思う。
 唯一であるからなのか、なぜか中学校でも教えられている。
 助詞の種類も、用言や助動詞の活用も教えずに、「係り結びの法則」だけ教える中学校の古典は、なんというか尋常ではない。はっきりいって、ばかなんじゃね?という感覚だ。
 中学校の先生からすると、「高校入試に出るから、しょうがないじゃないか」ということになるだろう。
 たしかにそのとおりだ。
 指導要領も読まずに適当に問題をつくっている高校教師もまたどうしようもない。 
 それが学校の教員の知能レベルというしかないが、それが世の中である。
 そんなに世の中の人みんなが、理路整然としていて、相手のことを思いやって、心優しく接してくれるなんてことはないのだ。
 どちらかといえば、真逆の娑婆を生きねばならぬだから、これくらいのことを理不尽といっててはいけない。
 おそらく中学校の先生は、なぜこんな法則が存在するのかを知らずに教えているにちがいない。
 なぜなら、私も知らないから。
 ただし、答えがどこにあるかは知っている。
 大野晋先生の『係り結びの研究』(岩波書店)を読みさえすればいいのだ。
 ということで、何年も本棚にかざっておいたこの名著ををひもといてみた。
 ふむふむ。
 なるほど。さすが大野大先生だ。
 「ぞ・なむ・や・か」の結びは連体形、「こそ」の結びは已然形、というたんなる約束ごとではなかった。
 日本語の文構造全体の性質がそこには現れていることがわかった。
 授業化できるかな。
 
コメント (2)
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