Flの先生をお迎えに上福岡駅前に着いたら「一本乗り遅れてしまいました」とのメール。じゃあと思ってトランクからCDをもってこようとして、CDの山の下から川上健一『透明約束』を見つけた。ここにうもれていたのか。
読みさしのままだった。
一つめの短編「カナダ通り」を読み返す。
女子高校生が、通学途中にあるケーキ屋さんで、はじめてそこのチョコレートケーキを食べるシーン。
~ なめらかな舌触りだった。おいしさが口の中に広がった。いろんな味や香りがいっぱい隠れていて、それらが味わいを作っているのに、それでいてすっきりしたおいしさだった。味と香りが口の中でやさしく微笑んでいるような感じだった。 ~
う~ん、ここだけ読むと、ふつうにおいしそうな感じだ。
主人公は、毎日片道1時間40分かけて徒歩で高校に通っている。
なんのとりえもない自分だから、せめて3年間無遅刻無欠席で高校に通おう、しかも歩いて通学しようと心に決めている。
何かあったときは、しょうがないけどという気持ちではじめた徒歩通学だが、だんだんと意地になってくる。
卒業後の進路はどうしようか、どこでもいいから普通の大学か短大にいって、ふつうにお勤めしなさいという母の言葉を素直に聞けないままにいる。
高校3年のある夏の日、学校の帰り道、あいさつだけは毎日交わしているケーキ屋の奥さんが、ちょっと寄っていかないかと声をかけたのだ。
とてもきれいな人だけど、手は荒れている。小学生になる二人の娘をもち、ご主人と二人で店を切り盛りする女の人の手だった。
なんとなくすっきりしない日々を過ごし、何に対してなのかは自分でもわからないけど、何かに意地になり、素直になれない高校生の気分というのは、こんな歳になってもかなり現実感をもって理解することができる。
だから、彼女がケーキを口にしたときにあふれてきた感情が、ほんとうに他人事でない気がして、心にしみる。
もともと食い物には弱いし。
~ とたんに胸の中で固まっていた何かが柔らかくなっていった。熱く熱を持って胸がいっぱいになり、あふれだした。
沙織さんのやさしさが胸にきたからではない。ケーキが、本当においしかったからだ。本当においしくて、びっくりして、感激して、それで沙織さんを見たらやさしく微笑んでくれていて。自分が意固地になったことがバカに思えて、学校や家での嫌なことや、あまり楽しくない毎日とか、全部が、ケーキのおいしさで、いっぺんに幸せな気分になって、なんだかうれしくて、全身から力が抜けていって、すごくほっとして楽になって、そしたら何だか自分がかわいそうに思えて、でもやっぱり、こんなおいしいケーキを食べられて生きててよかったって、もう何が何だか分からないぐらいに感激してしまった。 ~
たぶん、ここのケーキ屋さんはほんとうにおいしいのだと思う。
でもたとえば、あるお金持ちのマダムが、適当にみつくろってくれる、あ、おつりはいらないわ、とか言って買って帰り、女中さんにお紅茶いれてちょうだい、と言って「25ans」をぱらぱらめくりながら食べてても、「わりといけるわね」ぐらいだと思うのだ。
~ ケーキを口にふくんだまま、うつむいて、目をぎゅっと閉じて、ポロポロと涙をこぼし続けた ~
一つの音にしても、絵画や美術品もかな、どんなコンテクストにおかれたかによって、人の心をうつ度合いはまったく変わる。
今のわが部の演奏状態は、おせじにも上手とはいえないけど、心をこめて演奏していれば、きまらないハーモニーにさえ、感動してくれる方がいるかもしれない。
もちろん、ハーモニーはあわせないといけないけど。
食べ物や芸術にかぎらない。
たった一つの言葉が、ある時ある人にとって、ものすごく大切なものにもなる。
梶井基次郎の「檸檬」も、そんな小説だといえるだろう。
死を意識して鬱屈とした主人公が、八百屋の前で手に取った檸檬のずっしりとした重み。
「カナダ通り」の女子高生が、口にふくんだチョコレートケーキの甘さ。
どちらも、ザ人生だ。
ときどきこんな小説に出逢えると幸せだ。
いろいろつらいこともある毎日だけど、がんばって生きていこうと思うのさ。
読みさしのままだった。
一つめの短編「カナダ通り」を読み返す。
女子高校生が、通学途中にあるケーキ屋さんで、はじめてそこのチョコレートケーキを食べるシーン。
~ なめらかな舌触りだった。おいしさが口の中に広がった。いろんな味や香りがいっぱい隠れていて、それらが味わいを作っているのに、それでいてすっきりしたおいしさだった。味と香りが口の中でやさしく微笑んでいるような感じだった。 ~
う~ん、ここだけ読むと、ふつうにおいしそうな感じだ。
主人公は、毎日片道1時間40分かけて徒歩で高校に通っている。
なんのとりえもない自分だから、せめて3年間無遅刻無欠席で高校に通おう、しかも歩いて通学しようと心に決めている。
何かあったときは、しょうがないけどという気持ちではじめた徒歩通学だが、だんだんと意地になってくる。
卒業後の進路はどうしようか、どこでもいいから普通の大学か短大にいって、ふつうにお勤めしなさいという母の言葉を素直に聞けないままにいる。
高校3年のある夏の日、学校の帰り道、あいさつだけは毎日交わしているケーキ屋の奥さんが、ちょっと寄っていかないかと声をかけたのだ。
とてもきれいな人だけど、手は荒れている。小学生になる二人の娘をもち、ご主人と二人で店を切り盛りする女の人の手だった。
なんとなくすっきりしない日々を過ごし、何に対してなのかは自分でもわからないけど、何かに意地になり、素直になれない高校生の気分というのは、こんな歳になってもかなり現実感をもって理解することができる。
だから、彼女がケーキを口にしたときにあふれてきた感情が、ほんとうに他人事でない気がして、心にしみる。
もともと食い物には弱いし。
~ とたんに胸の中で固まっていた何かが柔らかくなっていった。熱く熱を持って胸がいっぱいになり、あふれだした。
沙織さんのやさしさが胸にきたからではない。ケーキが、本当においしかったからだ。本当においしくて、びっくりして、感激して、それで沙織さんを見たらやさしく微笑んでくれていて。自分が意固地になったことがバカに思えて、学校や家での嫌なことや、あまり楽しくない毎日とか、全部が、ケーキのおいしさで、いっぺんに幸せな気分になって、なんだかうれしくて、全身から力が抜けていって、すごくほっとして楽になって、そしたら何だか自分がかわいそうに思えて、でもやっぱり、こんなおいしいケーキを食べられて生きててよかったって、もう何が何だか分からないぐらいに感激してしまった。 ~
たぶん、ここのケーキ屋さんはほんとうにおいしいのだと思う。
でもたとえば、あるお金持ちのマダムが、適当にみつくろってくれる、あ、おつりはいらないわ、とか言って買って帰り、女中さんにお紅茶いれてちょうだい、と言って「25ans」をぱらぱらめくりながら食べてても、「わりといけるわね」ぐらいだと思うのだ。
~ ケーキを口にふくんだまま、うつむいて、目をぎゅっと閉じて、ポロポロと涙をこぼし続けた ~
一つの音にしても、絵画や美術品もかな、どんなコンテクストにおかれたかによって、人の心をうつ度合いはまったく変わる。
今のわが部の演奏状態は、おせじにも上手とはいえないけど、心をこめて演奏していれば、きまらないハーモニーにさえ、感動してくれる方がいるかもしれない。
もちろん、ハーモニーはあわせないといけないけど。
食べ物や芸術にかぎらない。
たった一つの言葉が、ある時ある人にとって、ものすごく大切なものにもなる。
梶井基次郎の「檸檬」も、そんな小説だといえるだろう。
死を意識して鬱屈とした主人公が、八百屋の前で手に取った檸檬のずっしりとした重み。
「カナダ通り」の女子高生が、口にふくんだチョコレートケーキの甘さ。
どちらも、ザ人生だ。
ときどきこんな小説に出逢えると幸せだ。
いろいろつらいこともある毎日だけど、がんばって生きていこうと思うのさ。