水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

何様

2009年11月10日 | 日々のあれこれ
 こんなショウバイをしてると、たとえば生徒指導などという局面になったとき、いったい自分は何様かと思うことがある。
 生徒指導にかぎらないか。
 宿題の提出をきびしく言いつのるけど、じゃあ自分はすべての仕事を期日までに終わらせているのかと問われれば、うつむくしかない。
 もっと主体的にとりくめ、あきらめるな、道は開かれる、才能は無限だ、すばらしい未来が待っている、自分の考えをつらぬけ、正義に生きよ、とくりかえし叫ぶ自分は、しがない一教員だ。
 主体的になど生きてはいない。
 生活のためには信条などすぐ撤回する。
 明日やれることは明日にまわし、今日やるべきことも明日にまわし、目標は絶えず下方修正し、気がつけば一杯やりながら、自分の課題には目をつぶり、この平凡の日々こそ大切なのだとうそぶきながら、日常を過ごしている自分。
 しかし、生徒諸君の前では、しっかりしろと言う。ちゃんと生きよと。
 なぜか。
 教員だからだ。
 それが仕事だから、その職責をまっとうしようとしているのだ。
 生徒諸君も、こんなおれの話をきいてくれる。
 時によろこんでくれたり、ためになったと言ってくれたりする。
 でも、それはおれの人間性がそうさせているのではなく、教員と生徒という関係がうみだすものだ。
 街中で、見知らぬ誰かに向かって「こんなふうにがんばってごらん」と話しかけたなら、見向きされないで終わればいいが、通報される危険性もある。

 裁判官の仕事とは何か。
 神にかわって判決を言い渡す存在だ。
 近代社会は人と人とが直接復讐しあうことを禁じた。
 自らの罪を神に懺悔しても、それだけで赦してはもらえなくなった。
 われわれに負託により、裁判官に神に変わって刑をつげてもらうことになった。
 われわれが裁判官の判決をうなだれて聞くのは(経験はないが)、裁判官の人間性を前に深く悔い改めようとしているのではなく、自分の罪は制度としてこのように裁かれるものであるという了解にもとづいている。
 裁判官が、私服で街中で「君の行為は懲役何年にあたる」と誰かに向かって言ったとしたら、見向きされないで終わればいいが、相手によっては半殺しになる。

 たぶん小さなことなんだろうけど、今回の酒井法子さんの全国的公開いじめショーにおいて、裁判官が「自分の刑を、復唱してみなさい」と被告にむかって異例の問いかけをしたという記事をよんで、ちょっとカチんときたのだ。
 あんた何様? と思って。
 
コメント
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