水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

楽隊のうさぎ

2010年01月18日 | 国語のお勉強
 センター試験の国語の第2問には、中沢けい『楽隊のうさぎ』が出題された。
 吹奏楽部を舞台にした小説として最上のものだ。

 問2 傍線部A「音が音楽になろうとしていた」とはどういうことか。

 わが部の3年生しょくんはだいじょうぶだったろうか。
 「音が音楽になる」っていう言い方知ってるぜ、おれ、という感覚で本文から目が離れてしまうと間違う危険性がある。
 ちゃんと傍線部直前の「つまり」のチェックして、きちっと言い換えてある選択肢を選ばないと。
 
 さあて、文句言おうかな。
 問4はさすがにまずいです。
 小説には、毎年微妙な問題がいっこ混じってるけど、この設問については、微妙というより「正解が間違っている」と言わざるをえない。
 ここで何を叫んだところで、発表されている答えで採点されるのだけれど。
 こんなシーンだ。

 吹奏楽コンクール県大会の前日(いいなあ、県…)、主人公の克久が練習を終えて帰宅する。
 全身に緊張があふれ、やるだけやったという誇りと、それでいて何かの拍子に切れてしまいそうな姿を見て、母の百合子は「こんなおだやかな精神統一のできた息子の顔を見るのは初めてだ」と思う。
 そして、お互い、大会のことには触れないようにしようとしている。

~「お風呂、どうだった」
 「どうだったって?」
 「だから湯加減は」
 音楽でもなければ、大会の話でもない話題を探そうとすると、何も頭に浮かばない。湯加減と言われたって、家の風呂は温度調整のできるガス湯沸かし器だから、良いも悪いもないのである。
 「今日、いい天気だったでしょ」
 「毎日、暑くてね」
 「……」
 練習も暑くて大変ねと言いかけて百合子は黙った。
 「……」
 克久も何か言いかけたのだが、目をぱちくりさせて、口ヘトンカツを放り込んでしまった。
 「あのね、仕事の帰りに駅のホームからうちの方を見たら、夕陽が斜めに射して、きれいだった」
 「そう。……」
 なんだか、ぎこちない。克久も何か言おうとするのだが、大会に関係のない話というのは探しても見つからない。それでも、その話はしたくなかった。この平穏な気持ちを大事に、そっと、明日の朝までしまっておきたかった。
 初めて会った恋人同士のような変な緊張感。それにしては、百合子も克久もお互いを知り過ぎていた。 ~

 問4 傍線部C「始めて会った恋人同士のような」とはどういうことか。

 選択肢はこうなっている。

① 自分の好意を相手にきちんと伝えたいと願っているのに、当たり障りのない話題しか投げかけられず、もどかしく思っている。
② 互いのことをよくわかり合っているはずなのに、相手を前にしてどのように振る舞えばよいかわからず、とまどっている。
③ 本当は心を通い合わせたいと思っているのに、話をしようとすると照れくささからそっけない態度しかとれず、悔やんでいる。
④ 相手の自分に対する気配りは感じているのに、恥ずかしくてわざと気付かないふりをしてしまい、きまり悪さを感じている。
⑤ なごやかな雰囲気を保ちたいと思って努力しているのに、不器用さから場違いな行動を取ってしまい、笑い出したくなっている。

 いかがでしょうか。
 傍線部は、「初めて会った恋人」って、そんなの可能なの? と立ち止まらせる表現だ。
 正解は②ということだそうだ。
 本校の入試問題作成会議でこの設問が提示されれば間違いなく却下される。
 根拠となる言葉が、文章の表面にないからだ。
 そういう場合には、傍線部そのものをどれほどきちっと言い換えられているかがポイントになる。
 となると「初めて会った恋人同士」というパラドキシカルな表現を、言い換えないといけないのだが、手強い作業だ。
 初めて会った恋人同士ってどんな状態だろ。
 お互いに何らかのきっかけで恋心をいだいてしまった相手、その人に初めて会う機会が訪れた。
 好きどうしであることはわかっているのだが、会話の糸口がつかめない。
 何か言いたい、つながりたい、わかりあいたい、なんて思いは強くあるのに、どうしていいかわからなくてとまどっている状態。
 そんなふうな、はがゆくも切ない状態を想像する。
 ぜひとも体験してみたいような場面だ(もうないよね … )。
 こうやって純粋に傍線部の意味を考えてみると、正解は③が一番近いんじゃないかな。
 傍線部直後の「百合子も克久もお互いを知り過ぎていた」に引っ張られて、正解選択肢をつくったのだろうと思われる。
 でも、それじゃ「初めて会った恋人」のニュアンスは表せない。
 「恋人」なのだから、わかりあっているんじゃないの、という人がいるかもしれない。
 ちがうな。
 人は何にも情報がない人に対して簡単に恋に落ちる。
 情報がないからこそ落ちるといってもいい。
 勘違いと思い込みが恋の本質であって、その先勘違いだときづいて覚めてしまうのか、愛に変わっていくのかはそのとき次第だ。
 ひょっとしてこの問いをつくった先生は、そのへんの機微に疎い方かもしれない。
 なんてことを考えたのだが、いかがでしょうか。


 
コメント (3)
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