現代文の評論の読解は、筆者の言いたいことは何かをつかむことが目標だ。
言いたいこと。その文章で一番大事なところ。その文章を書かせる原動力。
主題とか主旨とも言われる。
主題も主旨も要旨もテーマも、人によって使い方が異なるという不思議な世界がこの国語業界だ。
出口氏は「主張」と言い、藤田先生は「イイタイコト」と言い、古くは高田瑞穂先生が「たった一つのこと」と言った。
言い方はなんでもいいとしよう。
小論文の添削をしてて、とにかく一番書いてほしいこのことを書いてくれない子が多い。
その原因はおそらく2種類。
a そのことが一番大事だとわかってないこと。
b おぼろけにわかっていても、それが大事なこととして立ち現れるような書き方を身につけてないこと。
言いたいことをつかんでもらうための方法を、上記の先生方はじめ我々は模索してるのだが、その一つの方法として、思いついたネーミングがある。
「『切実なる思い』をつかめ」
「イイタイコト」「たった一つのこと」よりも、さらに切実度を増してみた。
どんな文章でも、それが書かれなければならなかった理由がある。
原稿料を稼ぐためという重要な別次元のものは置いておく。
文章を書く人には、原稿料など入らなくても、どうしても書きたい何かはあるはずだから。
その文章が書かれたのはなぜか。
筆者はなぜその文章を書かざるを得なかったのか。
要約文を書くときには、まずそれを考えなさいということを第一に添削している。
「思い」をみつけたなら、そこが要約のメインになるのは当たり前で、メインの内容がそれだとわかるために、その他のすべての部分が使われてないといけない。
だとしたら、誰でも言えるような一般的な内容は、わずか200字のなかに書く必要はなくなる。
入試で出題された文章の場合、筆者がどうしても書かざるを得なかった内容と、出題者の読みとってほしい内容とが当然重なる。
多くはおじさんである書いた人と、多くはおじさんである出題者が、何をみんなに読ませようとしているのか。
その「切実なる思い」をせいぜい酌み取ってあげるべきだ。
それが国語の勉強だ。