「不良」になる子供は家庭環境に問題がある … とよく言われるが、この場合に家庭環境ってなんだろう。
親の稼ぎが悪く経済的に困窮する家庭、親の生活態度がよくなくてすさんだ雰囲気の家庭、子供に対する親の愛情が不足している家庭 … 。
すぐに思いつくことを並べてみると、結局家庭環境とは親が形成するものであり、そこにあとから登場した子供が入ってくるという形になっていることに改めて気づく。
家庭の年収と、子供の学力・学歴との相関関係は、客観的な調査があきらかにしてはいるが、じゃ貧しい家の子はみな不良になるのかというと、もちろんそんなことはないし、逆の例も多い。
親御さんはぼおっとしてるけど子供はしっかりしている、というような例もあれば、その逆もよくある。
また「親の愛情不足で、子供が不良になる」という物語は実にわかりやすくはあるのだが、簡単にのっかりすぎるのは、本質を見失う。
我々はとくに、商売柄そういう便利な物語を想定して自分を納得させようとしてしまうが、慎重になるべきだろう。
だいたい、母親が男の人とつきあっているぐらいで、「自分は愛されてない」と落ち込む必要はないのだ。
だって、父親がなくなって何年も経つのだし。
お母さんだって、一人の人間であり、一人の女性ではないか。
根本的に親と子供とは別個の人間だ。
そんなことぐらい、中学生にもなったら、ある程度は理解しないといけない。
自分が周囲とうまくやれてないこと、勉強や学校行事に身が入らないこと、不良とつきあうことを、全部母親のせいにしようとするのは、あまりに母親ばなれできなさすぎではないのか。
そんなことを能年玲奈ちゃんに言ってあげたくなった。
それに、木村佳乃さんだよ。こんなお母さんが毎日家にいてごはん作ってくれるんだよ。
こっちが子供になりたいよ。
子供は、物心つく前の記憶はなくしている。
誰かの本に書いてあって、なるほどその通りだ、親子が最も原始的な関係であるときの記憶を、人はもっていないのだと思った。
物心つくまえ、つまり一番子育てとしては大変な時期の記憶。
一人では生きていくことのできない、まだ人とも言えない状態の生物から、おちちをのませ、ごはんをたべさせ、おむつをかえ、だっこしてもらい、げぼのせわしてもらい、やっとのことで人間にしてもらったのだ。
それで一人前にものを考えられるようになってから、うちの親の愛情は足りないんじゃないかなんて考えはじめたら、ばちがあたる。
人にしてもらって、そのうえ大きくなってからも衣食住を用意し続けてもらえることを、ありがたいと思わねば。
まあ、渦中の当人にとっては、そんな理屈は聞いてはもらえないかな。
成長のスピードのはやい子供の方が、親離れしていく方向で日々を過ごせる環境が必要なのだろう。
学校はどんな場所であるべきかを考えるとき、この親離れの機能をどれくらい果たす場所になっているかは、判断規準になると思う。
その昔若者の心をつかんだ「ホットロード」を、今の若者が見るとどんな感想を抱くのだろう。
暴走族とか長いスカートの不良少女とか、「昔か!」とつっこまれておわりのような気もする。
昔の若者にとっては雰囲気のある作品だったけど、なぜ今これ? という思いも残るのが正直なとこだった。
能年玲奈ちゃんが見れたからいいかな。それに、友達役の竹富聖花さんが実によかった。